エッセイ 私の古仏探訪 3

エッセイ 私の古仏探訪 3

山の辺の名刹

長岳寺(ちょうがくじ)
 桜井駅から北へ長岳寺に向かう。街道の両側にところどころこんもり木に覆われた小山が見える。古墳や天皇陵である。ここ山の辺にはそうした小山がよくみられ、古代の里が実感される。柳本バス停から続く寺の参道はきれいに整備され、堀に囲まれた崇神(すじん)天皇陵を右に見ながら散歩気分で楽に歩ける。
 さほど大きくない大門を入ると楼門に至る道の両側は背丈以上もある大きなつつじが大量の花をつけていた。あと二、三日もすれば満開になってまさに花の回廊になるだろう。

長岳寺大門.江戸時代初期の再建

参道.つつじの生垣

 この寺は824年淳和(じゅんな)天皇の勅願で弘法大師が創建したといわれている。
 楼門は日本最古の鐘楼門で寺の創建当時の唯一の建物という。小さいながらも立派な二層門でかつては上層に鐘が吊るされていたというが今はない。
 楼門の手前に旧地蔵院がある。最盛時には48あった塔頭のうちただ一つ残った建物という。室町時代の書院造りで落ち着いた雰囲気がある。
 楼門を入る。左手奥に大きな本堂が見える。江戸時代に再建された建物で、阿弥陀三尊や二天王などの像が安置されている。

鐘楼門.わが国最古の鐘楼門、創建当時の唯一の建物

本堂.江戸時代中期の再建

阿弥陀三尊像

 阿弥陀三尊像のうちの中尊阿弥陀如来像は像高140㎝の堂々たる座像で、かつては金箔で覆われていたと思われるがすっかり剥落して漆黒でブロンズのようなつややかな姿だった。一見、運慶かと思う。傍によってよく見ると衣の襞は彫が深く鎌倉彫刻のようである。しかし、豊かな像容で、鼻稜が高くそのまま眉として左右に広がっていて鼻根辺りの窪みがない。飛鳥、天平時代の像によく見られるような顔の作りである。平安時代後期と書かれていることから確かだと思うが典型的な平安時代の作とはどこか違うような気がした。

 中尊は丸顔で肥満気味、胸のあたりがぽっちゃりしているが、胴周りが絞られている。脇侍の二尊はやや面長で、体形は中尊と同様である。半跏像として両者は対称的に片足を下げているのが珍しい。
 

阿弥陀三尊像の中尊.平安(藤原)時代
(著者による自筆)

 この三尊像には玉眼が使われている。当時の仏像は、目は外形を彫った中に墨で描かれているのが普通だが、この像には玉眼が使われていた。玉眼は薄くレンズ状に削った水晶の裏側に墨で瞳を描いたものをくり抜いた目の部分に内側からはめ込み、白い和紙で裏打ちしたものである。当時の人々は苦しい日々の暮らしのなかで来世の幸せを願って阿弥陀仏を信じていた。その像に玉眼を使うことで現実感が増し、人々の信頼を高める効果が期待されたのである。鎌倉時代以降の仏像によく使われるが、この阿弥陀三尊像はその先駆ということだった。
 半開きの瞼の奥に黒い瞳が光っていた。

 この阿弥陀三尊像、その彫りが深いことや玉眼を使っていることから誰が製作したのか気になった。あとで調べたところ、この三尊像は寄木造りだがその用材の使い方からみて奈良仏師、康助(こうじょ)の可能性が高いということだった。運慶の父康慶の一代前の仏師である。というわけで、のちの慶派に繋がるもので美術史上大変貴重な像であることがわかった。そうとは知らず、もともとここを訪れたのは二天王像が目あてであったが、見事な像に出会えて何か得をしたような気分になった。とても魅力的でいい像ある。

 三尊像の左右に等身大の増長天と多聞天の像が置かれていた。平安中期の作というが邪鬼を含めて彩色が驚くほどよく残っていて截金(きりがね)も見事だった。この像はかつて聖林寺の十一面観音像と同じ古寺にあったというが、そこの保存環境がよかったに違いない。

 

花の庭
 本堂の前の広大な庭には大きなつつじが満開の花をつけ、池にはカキツバタが緑の葉の間に青色の花を散らしていてその美しさに時を忘れて見とれてしまった。今まで見てきた寺の庭のうち最も自然で美しいのではないだろうか。深山の中にいるような静かで安らぎを感じさせるいい庭である。
 寺の裏山に上ると大小の石仏や石塔が点在していた。なかには鎌倉時代に古墳の石棺の蓋から作ったという2メートルもの大きな弥勒(みろく)大石棺仏(だいせっかんぶつ)があった。

本堂前の庭園.つつじ、カキツバタが見事

弥勒大石棺仏

 このあたり一帯は三輪山の山麓にあって古くから交通の要衝として栄えた。そうめん発祥の地としても有名である。街道の両側には大きな製麺所がいくつも見える。この長岳寺でも予約すると季節に応じた三輪そうめんが味わえると後で知った。残念なことをした。

フェノロサ、天心絶賛の十一面観音像の寺

聖林寺(しょうりんじ)
 桜井駅から南へ談山神社行きのバスで10分ほど行ったところにある名刹。聖林寺と書かれたバス停から西へなだらかな坂道を暫く行くと右手に木々の間に寺の屋根が見えてくる。

聖林寺への道

 聖林寺は多武峰(とうのみね)山麓の高台にあって、本堂と観音堂、庫裡(くり)ぐらいしかない小さな寺である。その創建は古く、奈良時代に談山神社(たんざんじんじゃ)妙楽寺の別院として建てられたという。

 本堂には江戸中期に造られた大きな石仏の子安延命地蔵像が本尊として安置されている。安産や子授けに霊験あらたかとして広く信仰を集めているらしい。
 本堂の左手から階段廊下が山の斜面に沿って上に伸びていてその先に観音堂がある。コンクリート造りの収蔵庫を兼ねた堂である。

聖林寺正門

本堂.江戸時代中期の再建

十一面観音像

 堂に入ると、国宝十一面観音像一体だけがガラスケースに覆われて部屋の中央に置かれていた。いわゆる八頭身のすらりとした細身の姿である。台座は免震構造になっているというがかなり高く、そこに杯状の蓮華座を介して立つ像は見上げるような高さだった。明るい照明、空調が効いた部屋には数脚の椅子があるだけで他に何もない。観音像を周囲どこからも見られるようになっていて博物館のような雰囲気だった。

十一面観音像.奈良(天平)時代
(著者による自筆)

 この像は寺伝によると、760年代に天武天皇の孫の智努王(ちぬおう)の願によって東大寺の像仏所で作られたとの説が有力らしい。もとは他の寺の秘仏だったのが明治初期廃仏毀釈の折にこの寺に移され、その後フェノロサ、岡倉天心らによって開扉されてその美しさが知られるようになったという。保存状態がよく、胸の一部に落剝があるが全体に金箔が残っている。

 頭に十一面を乗せ、左手に蓮の花の花瓶を持っている。右手は自然に下げているが、指先は太ももの中ほどにある。十一面観音像には法華寺の像のように観音の三十二相に従って膝に達するほど長い手のものもあるがこの像は人とほぼ同じである。その指先には微妙な和らかさが感じられる。豊満で威厳のある顔や長身で堂々とした像容からは荘重という表現がぴったりである。

 和辻哲郎は古寺巡礼の中で、「見慣れた形相の理想化であって、異国人らしい跡もなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかも、そこに神々しい威厳と人間のものならぬ美しさが表現されている」という。また、写真家の土門拳は「三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)の化身ではないか。菩薩の慈悲というよりは神の威厳を感じる」と述べている。と、多くの人がその姿を絶賛しているが、美術史家の中には天平の名作と認めるものの随一というほどでもないという人もいる。
 人それぞれで見方は異なるだろうが、数ある十一面観音像の中で威厳、荘重という点で飛びぬけていて必見の価値のある像であることは間違いない。ただ、それだけに近寄りがたい感じがするのはやむを得ないのかもしれない。
 来訪者は他におらず、長年見たいと思っていた観音像を独り占めの状態だった。この像は2021年だったか東京国立博物館に来たが、コロナ禍で入場制限していたため行くのを諦めた。もし行ったとしてもこうはならなかっただろう。ここまで来た甲斐があった。
 暫く見ているうち、このような長い脚の人、長身の人は今では珍しくないが、奈良時代にはほとんどいなかったのではないか。当時の人たちはそうした中で背が高い、脚が長いことに憧れていたのではないかと思ったりした。この像に限らず立像は一般に長身で下肢が長いのはそうした憧れを理想化したものに違いない。
 仏像を彫刻するときまず体の形を設計しなければならないが、古くから顔の長さと身長の比率が問題にされた。その一つに髪際から下唇下あるいはオトガイまでを1単位としてその10倍を身長とするといった方法がある。それによると乳、臍、股間、膝の高さを単位毎で決めている。やがて平安後期になると定朝が仏像として好ましい姿となるような各部の比率を算出した木割法を考案した。以後それに則って、あるいはそれを製作者の考えによってアレンジして造像されるようになった。
 奈良時代のこの十一面観音像はおそらく顔の長さを1単位とする方法で設計されたと思われる。そこで、写真上で計ってみると、身長は髪際からオトガイまでの長さの丁度10倍、頭頂からオトガイまででみると約8倍だった。また、股関節に相当する腰の最大幅径の位置から下を下肢として身長に対する割合をみると58%だった。やはり脚が長い八頭身の恰好いい仏像であることが分かった。
 本像は木心乾漆造りといわれ、木で概形を作りその上に漆を塗って彫刻したものである。内部を一部刳ってあるので多少軽いが、それでも2メートルを超える像ともなると倒れると大変である。一般に立像はそのような恐れがあるため足裏から枘(ほぞ)と呼ばれる支柱を台座に差し込む方法がとられる。この像では2本の長大な枘が蓮華座に差し込まれているという。最初この像を見たとき蓮華座が杯状で高いのが気になったが長い枘をしっかり支持するためそのような高さが必要だったと気付いた。

十一面観音像のためフェノロサ寄進の厨子

 本堂に厨子が設えられ、その中にこの像の写真が掲げられていて撮影自由となっていた。国宝の観音像が撮影禁止になっていることへの配慮だろう。その厨子はフェノロサが寄進したもので、以前はその中に十一面観音像が納められていた。厨子にはいざというとき像をすぐ運び出せるような細工が施されているという。
 本堂は高台にあるため眺めがよく三輪山や古墳なども遠くに見ることができた。

本堂からの眺望.正面奥に三輪山を望む.

 寺を出てバスを待つ間付近を歩く。4月半ば、近くの田んぼにはまだ水が張られてないが蛙の声がしきりに聞こえてくる。久しぶりに聞く声である。

                                                  つづく