エッセイ 私の古仏探訪 2

エッセイ 私の古仏探訪 2

明日香から吉野山へ

聖徳太子と田道間守(たじまもり):神話の残る寺

橘寺への道

橘寺(たちばなでら)
 川原寺址(じし)の草原に立ち南の方角を見ると、街道の向こうに大きな屋根が連なっているのが分かる。橘寺である。街道の脇に聖徳皇太子御生誕所と書かれた大きな石柱が建っている。その傍の道を辿ると橘寺の西門に出た。
 ここ橘寺は欽明天皇の別宮があったところで572年厩戸皇子(聖徳太子)が生まれ育だった所とされている。皇子は幼いころから仏法を篤く信仰し、やがて仏典に注釈を加えた三経義疏を著わされた。606年推古天皇の仰せで勝曼経を三日間講義したところ、大きな蓮の花が大量に降り、皇子の冠が光輝くなど不思議なことが起きた。天皇は驚かれてここに寺を建てるよう命じられた。その宮を改造して作られたのがこの寺だという。
 当初は七堂伽藍の大きな寺だったが兵火や落雷で堂宇は焼失、そのたびに再建された。現在の堂宇は江戸時代になって再建されたものだという。その間、仏像などの移し替えがあって、法隆寺の1078年の記録には小仏像数十体を橘寺から迎えたと記され、玉虫厨子もこの時に移されたと考えられている。

橘寺の本堂、右の灯篭の陰に馬の銅像が立っている。

 西門を入るとすぐ右に太子殿と呼ばれる大きな本堂がある。ここには本尊阿弥陀如来を中央に、左に聖徳太子が勝曼経の講義をする像、その右に厨子に納められた田道間守(たじまもり)の小さな像が置かれていた。この聖徳太子の像は室町時代の作で比較的新しいが、重文である。
 そして田道間守。なんと、久しぶりに聞く名前である。彼は垂仁天皇の勅命で不老長寿の薬を求めて中国に渡り、十数年間の苦労の末やっと秘薬を探しだして帰国した。ところが天皇はすでに亡くなられていた。彼は悲嘆のあまり亡くなってしまったという。
 この話は日本書紀にあるが、戦前の小学校の国語や唱歌の教科書に載っていて、大変悲しい話だと長く記憶に残っていた。それが半世紀以上も経ってこの寺にその像があるとは。改めてこの話が思い出されて感無量だった。彼が持ち帰ったのは橘の種で、みかんの原種である。それにちなんでこの地を橘、この寺を橘寺と呼ぶようになったという。
 恐らく今の若い人は田道間守なんて知らないだろう。戦前の教科書では忠臣の鑑として扱われていたのである。

如意輪観音像
(著者による自筆)

 本堂のすぐ左手に観音堂がある。如意輪観音像が本尊として安置されている。如意輪観音像は本来密教系の仏像で観音菩薩が変化した姿とされ、2本あるいは6本の腕を持ち右ひざを立てた状態で座している。ここの像は6本の腕を持っている。11世紀藤原時代後期の作でゆったりとした等身大の像である。穏やかな表情で女の子のような可愛い顔をしている。身近にこのようにかわいいモデルがいたのだろうか。この像は人気が高く、これを目当てにここを訪れる人もいるらしい。作者は明らかでないが定朝の特徴がはっきり見られることから後を継いだ息子の覚助との説がある。
 本堂の斜め前にほぼ等身大の馬の銅像が立っていた。なぜ本堂の傍に馬の像があるのか、何か似つかわしくないように思えた。しかし、案内によるとこの馬は黒の駒と言い、太子の愛馬で空を駆ける馬だという。まさにペガサス。洋の東西に関わらず同じようなことを考えるものだ。でも、西洋の方が合理的でペガサスにはちゃんと大きな羽が付いている。黒の駒は羽はないが達磨大師の化身というからどうにでもなるのかもしれないが。災難厄除けのお守りになっているとのことだった。

二面石、善面(右)と悪面(左)が背中合わせになっている。

 聖徳太子は実在したかどうかという議論があるが、実在の人物だとすると、愛馬と言うのは分かるが、それが空を駆けるとか達磨大師の化身だなんていうと現実離れしてくる。初めの太子が勝曼経を講義したときに大きな蓮の花が大量に空から降ってきたというのもおかしな話だと思うが、本堂の前に蓮華塚という小山があって蓮の花を埋めた所、となると伝説と現実が入り混じっていてどこまで本当なのか分からなくなってしまう。蓮華塚は約100m2 で、大化の改新ではこれを面積の基準1畝として田畑の広さを割り出したという。
 本堂の南側に二面石という石像があった。一つの石の本堂側と反対側に人の顔が彫られている。本堂側は善面、反対側は悪面で、人の心の二面性を表しているという。飛鳥時代の石造物だというがどのような意図でここに置かれているのだろうか。

義淵(ぎえん)僧正ゆかりの花の寺

岡寺の仁王門、軒下の角に白い龍の阿吽像がついている。

岡寺(おかでら)
 正式には龍蓋寺(りゅうがいじ)。明日香村の東の山麓にあって、わが国最初の厄除け観音霊場といわれる。663年天智天皇の勅願で義淵(ぎえん)僧正が草壁皇子の住まいだった岡の宮のあとに建立したのが始まりとされる。
 義淵は当時の仏教界の指導者で東大寺の基礎を開いた良弁や菩薩といわれた行基の師とされ、僧正を名乗った最初の僧である。義淵は優れた法力をもっていて、当時この近くの田畑を荒らす龍がいたのを義淵がその法力で本堂の前にある池に閉じ込めて大石で蓋をしたという。そうした伝説が龍蓋寺の名の由来とされる。以来千三百年余り観音信仰の寺として多くの人の心の拠り所になってきた。
 近鉄岡寺駅から東に寺近くまでまっすぐ道が伸びていて昔は歩いたらしいが、だいぶ距離がある。今は寺の入口の石の鳥居前までバスで行ける。しかし、そこからが大変。仁王門までは約500メートルというが結構な上り坂で徒歩はかなりきつい。途中、電動自転車が乗り捨てられてあった。修学旅行中と思われる少年たちもとても上れないといって自転車をわきの草むらに放り出して歩き出した。きつくても歩くしかない。
 朱色の仁王門にやっとたどり着く。これは江戸時代前期に再建された門で軒の両角に白い阿吽の龍がついているのが珍しい。この門を入ると手水舎の鉢には色とりどりの花が浮かび、境内のいたるところにシャクナゲの白や薄紫の花が丁度満開で、つつじの赤い花とともに花の寺という名に恥じない見事さだった。
 正面の階段を上ると大きな本堂が見えてくる。この本堂は江戸時代後期の立派な建物である。本尊は奈良時代に造られた巨大な塑像の如意輪観音像で、4.5mもあり塑像としては日本最大という。寺伝によると、弘法大師がインド、中国、日本三国の土で作ったとされている。        
 橘寺の観音像とは違って鋭い切れ長の目、強い意志を感じさせる口、さらに巨大で重量感のある体から圧倒されそうで近寄りがたい。でも、厄除け観音として古くから知られていて、鎌倉時代の水鏡には厄除け寺として厄年の初午に岡寺に詣でるとの記載がある。また、義淵は親が観音に子宝祈願したことで生まれたという故事から、子授けにもご利益があるとして参詣者が絶えない。
 本堂の南にある三重塔が建つ丘からは明日香村ののどかな風景がよく見える。

岡寺の本堂、巨大な白い如意輪観音像が安置されている。

岡寺からの明日香村の眺め

桜の名所:吉野の始まりとなった祈りの山

金峯山寺の銅の鳥居

金峯山寺(きんぷせんじ)
 吉野山にある金峯山寺に行く。吉野山というと、昔後醍醐天皇が京を脱出してここに籠り南朝を宣言したといわれることから、かなり行きにくい所というイメージがあった。今では近鉄で吉野まで行き、そこからケーブルカーに乗ると吉野山上に楽に行ける。
 ひと目千本といわれる吉野の桜も4月半ばとなると花はすっかり終わって、山々は濃淡の緑に包まれていた。
 山上駅から登り坂が続きやがて大きな銅の鳥居が見えてくる。これは聖武天皇の勅願により東大寺の大仏造営で余った銅で作られたというが、鎌倉時代末期に北朝の高師直の攻撃で焼け落ち、室町時代に再建されたものという。
 そこから坂は勾配を増し、やっと大きな仁王門に辿り着く。これは国宝だが、ちょうど改修工事のためシートでしっかり覆われていた。門の左右に立っていた仁王像は事前に奈良博物館に移されていた。
 仁王門には入れないのでそのわきの道をたどると勾配はさらにきつくなる。大分上ってきたようで遠くの山々の連なりがよく見えて景色がすばらしい。これが桜の時期だったらなおのことだろう。この吉野山から山上ヶ岳(大峰山)に至る一帯は金峯山と呼ばれ、飛鳥時代から聖地として知られていた。
 7世紀白鳳時代、役行者(えんのぎょうじゃ)はこの金峯山で修行した。山上ヶ岳で熱心に祈りを続けたところ金剛蔵王権現が現れたのでその姿を山桜の木に彫り、それを山上が岳と吉野山に堂を立てて祀った。それが金峯山寺の始まりとされる。以来、山桜がご神木として保護され、献木されたりして吉野が桜の名所になったという。
 やっと蔵王堂と書かれた石塔が立つ広場の入口に着いた。そのわきに小さな稲荷社がある。後醍醐天皇導稲荷大神と書いてある。天皇が吉野に移られたとき、この稲荷神がその先導をしたというのである。

吉野の山

金峯山寺蔵王堂への入口と稲荷社

 広場の中央には山桜の木が四本植えられている。これは南朝の大塔宮護良親王が北条勢に攻められ吉野落城を覚悟して最後の酒宴を催したときの陣幕の柱跡だという。
 広場の向こうに二層の豪壮な蔵王堂が辺りを睥睨するかのように建っている。東大寺大仏殿に次ぐ大きさだという。安土桃山時代に再建された建物で国宝である。
 堂に入ると薄暗い中、三体の同じような顔をした巨大な像が下からライトアップされて厨子の中に浮かびあがっていた。全身青色で高さ6~7メートルもの巨体が拝観者を見下ろすように、牙をむいて咆哮しながら岩座の上で躍動する姿は圧巻というか不気味である。この三体の鬼のような像は金剛蔵王権現だという。
 仏像の中には密教寺院で見るようにいろいろ奇妙な姿態と恐ろしい憤怒相をした像があるが、この蔵王権現はそれとは少し違う。モノクロ画像ではわからないが、鮮やかな青色の顔に異様に太い金色の眉、鼻に届くほどの長い牙と金色の唇、怒髪天を衝くという表現がぴったりの逆立った金髪、そして頭頂からは赤い炎がめらめらと立ち上っている。と、まあ造作が奇怪というか、奇妙と言うか、そしてカラフルで、暫く見ているうちに不気味というよりもグロテスクといった感じがしてきた。蔵王権現様には大変失礼かもしれないがこの像を見ているとそんな気がしてきたのである。もっとも、ライトアップのせいもあるかもしれないが。堂内は多くの参詣者で混雑していた。

金峯山寺蔵王堂

中央の金剛蔵王権現像
(著者による自筆)

吉野朝宮と本地垂迹(ほんじすいじゃく):神仏宗派を問わず栄えた修行の場

 ところで、この像は一体誰が作ったのか。役行者か。そんな筈はない。文化庁の調査報告(1997)によると、像内の墨書から1590年に南都大仏師宗貞、宗印らが造ったことが確かめられたとしている。蔵王堂が完成したのが1592年というからほぼ同時期に作られたと考えられる。豊臣秀吉が天下統一を成し、朝鮮出兵を考えていた頃である。補修されたにしても非常に保存状態がいい。国宝である。
 この像を青い不動明王と言う人もいるらしい。しかし、それは誤りで蔵王権現と不動明王は部類が違う。権現は神のグループに属し、不動明王は仏のグループで明王という位にある。でも、権現はもともと仏や菩薩が仮りの姿で神として現れたという意味だからもとは同じだが、出現したものとしては別と考えるべきなのだろう。
 卑近な例で東照大権現というのがある。徳川家康の神号である。つまり、家康は神であり、それは仏が仮の姿で現れたものということである。ではその本体、これは本地と言うが、何なのか。薬師如来だという。それは家康の母が薬師如来に子宝祈願をして家康が生まれたという説や家康が薬草を育て製薬していたなどからといわれている。つまり、家康の本地は薬師如来でそれが神の姿として家康が現れたということになる。
 では、この三体の蔵王権現の本地は何なのか。釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩だという。それぞれ過去、現在、未来を通して人々を救済するためこうした憤怒の姿で現れたのだという。そう言われてもあまりいい気持にはなれない。
 こうした権現・本地の考え方は本地垂迹(ほんじすいじゃく)といわれる。
 では、何故そんなことになったのかである。それは大変複雑でわかり難いが大雑把に言うと、昔仏教が渡来してきたとき日本古来の神を信仰するものとの間で軋轢が生じた。それに対して何か理屈をつけてうまく収める必要があった。融和の精神というか、神と仏をはっきり区別しないで、ときには仏が神に変化するということを考えついた、ということになる。この本地垂迹という考え方は神仏習合思想と深く結びついている。
 来るとき、金峯山寺は寺であるのに何で鳥居があるのか不思議に思った。しかし、権現という神を祀っているということが分かって納得した。
 というわけで、金峯山寺は寺であると同時に神社のような性格をもっていて、ほかの寺とは大分違うということである。
 この蔵王権現像は秘仏で通常は拝観できない。この時は仁王門の修理勧進として特別に公開されていた。
境内は吉野山全体に及び、山中には多くの堂宇が点在する。吉野は後醍醐天皇以来、南朝の中心になったが、その間4代の天皇の行在所が吉野朝宮址(よしのちょうぐうあと)として蔵王堂の近くにある。実は、こんなところに南朝の宮廷があったとはここに来るまで知らなかった。急に南北朝時代が身近に感じられた。多くの忠臣に守られながら、このような山中で56年もの間どのような生活があったのだろうか。
 役行者によって開かれて以来、金峯山寺は修験道の中心として修験者や神仏宗派を問わず宗教に携わる人たちの修行の場となり、特異な性格の寺院として認められてきた。山伏姿で山の中を駆け回る千日回峰行はよく知られている。
 この広大な伽藍や修験道などは霊場として特異な文化的価値があると認められて2004年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
                                                        つづく