エッセイ 私の古仏探訪 1

エッセイ 私の古仏探訪 1

「奈良かあ。しばらく行ってないなあ。まだ行ってないお寺や見たい仏像があるんだけどな」テレビのコマーシャルを見ながらの独り言。「まあ陽気もよくなってきたし天候も落ち着いてきたので思い切って出かけるか」と、急に思い立って出かけることにした。訪れるのは橿原神宮を中心として西は二上山麓、南は飛鳥さらに南の吉野、つぎは桜井を中心に南の多武峰、北は山の辺、そして奈良の北東柳生、南西の斑鳩、市内の寺である。
當麻寺
 大阪府との県境に近い二上山の南東に位置する。創建は聖徳太子の弟の麻呂古王による万法蔵院に始まるとされ、白鳳時代681年に役行者の領地だったこの當麻に移った。当初金堂と講堂だけだった堂宇は奈良時代にかけて東西の塔や千手堂、のちの本堂曼陀羅堂など七堂伽藍が整備された。
 仁王門から入ると大きな広場になり、左に鐘楼、遥か正面に本堂そして金堂、講堂の屋根の重なりが望まれる。金堂の南に東西二つの三重塔があるはずだが建物の陰になって殆ど見えない。
 この境内、入るとなんだか落ち着かない。正面に本堂があるのだが何か変。以前来たときもそう感じた。大体、大きな寺は正門から入ると右か左に塔があり、正面に本堂あるいは金堂、その奥に講堂が建つ。ところが、ここでは正門である仁王門を入るとほとんど何もない大きな広場を通って金堂と講堂の間に来てしまう。これは境内の途中から入り込むような形である。落ち着かない原因はどうも伽藍配置にあるように思えた。

境内に入ると、左に鐘楼、奥には本堂などの屋根が見える。

正面に本堂、左に金堂、右に講堂が建っている。



 金堂を出たところに裏に最古の石灯篭があるとの表示があった。行って見ると小さな石灯篭が建っている。覆いで囲われていて伽藍が完成した685年頃のものという。なぜこんな目立たない金堂の裏にひっそりと灯篭があるのか不思議だった。だが、ひょっとすると今は閉ざされている南門が正門だったのではないか。そう考えると堂や塔の位置も納得できる。つまり、南門を入るとこの灯篭があり、その先に金堂、その奥に講堂が直線状に並ぶ、本堂である曼陀羅堂はその左手に、そして灯篭の左右方向に東西の塔が建つといった形になる。これだと多くの寺の伽藍配置と同じである。伽藍配置が問題だと思ったがそうではなさそうだった。入口の向きが違っているように思われた。

金堂裏の石灯篭

 そこで、元からこうだったのかと寺の資料を見ると、推測したとおり、初めは寺の正門は南門で金堂は南向きだった。それが曼陀羅信仰が盛んになるにつれ曼陀羅堂が主となり、さらに都が飛鳥京から藤原京に変わったことで南門が面していた街道よりも東門が面する街道の方が交通の便がよくなったことから大改造を行い、東門を正門として寺も東向きに変えたというのである。やっぱり金堂の入口はもとは南向きだった、それが北向きに変わり石灯篭は取り残されたのである。この石灯篭のおかげで寺の向きが変わったことがはっきりした。これで先の違和感は払拭された。
 そして面白いのは寺の向きだけではなかった。寺の宗旨も変わってきたのである。
創建当初は弥勒仏を本尊とする寺だった。それが弘法大師の教えを受けてから真言宗の密教の寺に変わった。やがて平安末期から中将姫伝説とその曼陀羅信仰の高まりから浄土宗をも受け入れるようになったという。

當麻寺の伽藍配置

本堂、曼荼羅堂ともいう。

 と、まあ寺の向きにしても宗旨にしても、時代の流れに合わせて柔軟に変えてきたという経緯にはまったくの驚きである。長い歴史の中で宗旨が変わった寺は少なくないが、この寺は現在も真言宗と浄土宗の二つの宗旨をもっている。仏教は基は一つだからそれでもいいのかもしれないが変な気もする。
 そこで堂の中に入ってみる。まず国宝の本堂曼陀羅堂である。正面に約4メートル四方もある巨大な曼陀羅織が掲げられている。これがこの寺の主役本尊である。掲げられているのは実は精巧な模写で本物は国宝で奥の厨子に納められているという。模写であっても描かれている西方浄土図は煤けていてよくわからない。かなりの年代物である。
 左の小部屋にはこの寺にゆかりのある役行者と弘法大師の像が安置されている。奈良の多くの寺にはこの二人や聖徳太子が深く関わっている。
 金堂に入る。この建物は鎌倉時代のもので、本尊は先に言った創建時からの弥勒仏で中央に安置されている。塑像として最古の像で、端正な顔立ちで鼻梁から頬にかけてなだらかに移行してふっくらした豊かな感じの丸顔。この時代の仏像は飛鳥大仏や法隆寺の釈迦三尊のように面長な顔立ちだと思っていた。しかし、それらは止利様式と呼ばれる形で、それより年代が後になると面長ではなくなると聞いて納得した。金箔がよく残っている。四隅には同時代に作られた四天王像が立っている。以前拙著に書いたように鎌倉時代の四天王像とは違って表情に険しさがなく、仏敵を力で制圧するのではなく説諭して納めようとする姿である。大変魅力的な像である。
 講堂には鎌倉時代の阿弥陀如来像を本尊としてほぼ同時代の多くの仏像が安置されている。
 さて、この寺の本尊である国宝の當麻曼陀羅である。中将姫が蓮の糸で織ったといわれている。前回来たとき本当に蓮の糸かと尋ねたところ細い絹糸らしいとのことだった。後でそんなこと聞くべきではなかったと思った。伝説なのだから寺に集う善男善女は非現実的であるのを承知の上で素直に聞いている。曼陀羅織が蜘蛛の糸であろうが蓮の糸であろうが構わない、ただ仏さまが載っている蓮の糸の方が仏教説話としてはしっくりする。
 では中将姫とはどういう人物かである。藤原鎌足の孫の藤原豊成の娘として747年に生まれ、幼少期から信仰心が篤かった。5歳のとき母がなくなり、継母には虐待され命をも狙われるようになるが、周囲の助けで山中に逃れ読経三昧の隠棲生活を送る。やがて継母が亡くなり都に戻るが仏への帰依の気持ちが強く、故あって當麻寺の尼僧となり29歳でなくなったと。ここまでは現実的な話である。ところが、曼陀羅を織るとなると伝説の世界になってくる。
 剃髪して法如と名乗った中将姫のもとにある日一人の老尼が現れ、蓮の茎を集めるよう告げる。法如は言われた通り大量の蓮の茎を集めた。再び現れた老尼と共に糸を取り出して井戸で清めると五色に染め上がった。そこに若い女性が現れ、法如を千手堂に誘う。翌日、法如が目を覚ますと目の前には五色の巨大な織物が出来上がっていた。老尼と若い女性は実は阿弥陀如来と観音菩薩だった。法如はこの曼陀羅に心を救われ、その教えを人々に説き続けたという。そして、法如が29歳になったとき願い通り阿弥陀如来が二十五菩薩を引き連れて現れ、法如は阿弥陀に導かれて生きながら極楽浄土へと旅立ったというのである。
 この話によれば曼陀羅織は中将姫が織ったのではなく、阿弥陀と観音の二人の仏が織ったことになる。そんなはずはないなんて言うのは野暮というもの、伝説である。
 

當麻蹶速塚。奥に相撲会館がある。

 當麻寺に行く駅近くに中将餅屋がある。有名な老舗で朝早くから大勢の人が並んでいた。その角を曲がると寺の仁王門まで一本道である。途中に當麻蹶速(たいまのけはや)塚という碑が立っていた。
 垂仁天皇の時代、この男けはやは大層な力持ちでほかにかなうものはいないと言われていた。天皇はこれを聞き、同じく力持ちといわれる野見宿禰(のみのすくね)を召し出して二人に力比べをさせた。長い試合の末、けはやは蹴り殺されてしまった。けはやは人望があったため當麻村の人々は彼を惜しんでここに祀ったという。そして、ここが相撲の発祥の地となり、さらに天覧相撲の起源となったと。この話は日本書紀にあるが、子供のころ母親からこれを聞いたことを思い出した。そんなおとぎ話が現実の相撲とつながっているとは不思議な気がした。
 寺の内外を見て回り昼過ぎに寺を出た。朝は人が大勢並んでいた餅屋は本日は売り切れとして店は閉まっていた。どんなものか帰りに買ってみようと思っていたのに残念だった。
 
飛鳥寺
 正式には安居院(あんごいん)。飛鳥大仏の寺として知られる。588年蘇我馬子の発願で飛鳥に法興寺(飛鳥寺)が594年に創建された。当時は塔を中心に東西北にそれぞれ金堂を配し、その外側に回廊を巡らし、さらにその北に講堂が建つという壮大な伽藍だった。718年法興寺は平城京に移り元興寺となった。しかし、馬子が建てた寺院は飛鳥寺としてそのまま残る。しかし、たび重なる火災で焼失し、室町時代にはすっかり荒廃した。江戸時代になって再建され現在の形になったという。今の飛鳥寺安居院の本堂は昔の法興寺の中金堂の跡に建てられている。
 本堂には歴史の教科書などでお馴染みの大仏釈迦如来坐像が安置されている。推古天皇の発願で609年鞍作鳥つまり止利仏師によって造られたわが国最古の仏像、もちろん国宝である。座高約3メートルの鋳造仏で、平安、鎌倉時代に火災で損傷を受けて補修されたというが、近くで見ると飛鳥仏の典型である面長で鼻梁が高く、鼻根から額に向かって左右に広がる線は聡明さを感じさせる。大きく見開いた杏仁形の目がとても印象的だ。
 そして意外だったのは、この像はもとより堂内は写真撮影が自由ということ。それはこの像をより多くの人に知ってもらうためだという。これには非常に共感を覚えた。
 大仏の右隣には阿弥陀仏が安置されている。平安中後期に造られたとされる木像で彫りが浅く穏やかな感じがする。しかし、写実的だというが胴長でバランスが悪く、表情も気迫に欠けるようだ。当時の人の写実なのだろうか。あまり見ない阿弥陀像だった。

飛鳥寺、飛鳥大仏の寺

飛鳥大仏、釈迦如来坐像

蘇我入鹿の首塚

 西門の先、畑のなかに蘇我入鹿の首塚が立っている。言われなければ気付かない。入鹿はいうまでもなく、飛鳥時代の大豪族蘇我氏の長で、聖徳太子の没後その専横ぶりが反感を買い、中大兄皇子、中臣鎌足らによって暗殺された。乙巳の変として大化の改新のきっかけとなった事件である。首塚は切られた入鹿の首が飛んだ場所だという。まさか。事件が起きたのは飛鳥板蓋宮で、首塚とは600メートルも離れている。そんなに飛ぶはずがない。敢えて言うなら首を葬った場所ということではないか。伝説は伝説、現実離れしているところが面白い。
 多武峰縁起絵巻にこの入鹿の首が宙を飛んだ場面が描かれている。以前それを見たとき誇張されていて漫画的で面白いと思った。江戸時代に伝説に基づいて描かれた絵図である。
 
川原寺址
 飛鳥寺から20分ほど行ったバス停付近には広々とした草原がある。北側の草原にはところどころに穴があいた大きな石が点在している。かつての川原寺の跡である。石はその寺の柱の礎石で、大理石のような石もあって立派な寺院だったことが伺える。
 天智天皇の発願で建てられたとされ、天武天皇の時代に隆盛を極め、飛鳥寺や薬師寺、大官大寺のちの大安寺とともに飛鳥の四大寺となった。のちに平城宮ができると他の寺はそちらに移ったが川原寺はそのまま残った。やがて度々の火災に遭い再建されたが、室町時代に落雷で焼失、以来再建されることなく廃寺になったという。
 礎石の並びから、街道に面して南大門があり、左手に金堂、右手に塔が建ち、正面奥に大きな中金堂と講堂があって回廊がめぐらされていたらしい。
 大寺院だった川原寺、現在その中金堂の跡に立つ弘福寺にはいくらかの遺物が伝わっているというが、なぜ平城京に移らなかったのか、なぜ廃れてしまったのか、不思議である。

川原寺址。手前に南大門址、右奥に塔の基壇址が見える。

 これについて、壬申の乱の後の天智王権と天武王権の確執が関わっているとの見方がある。壬申の乱で大友皇子に勝利した大海人皇子は天武天皇になるが、川原寺に勝利の記念として寺の礎石を運ばせ中金堂を立てたという。大友派の天智王権はそのような寺を平城京に移すのは好ましくないと反対したからではないかという説である。
 また、廃寺になったことについては、川原寺は発掘調査で古代インドの寺院の壁などに見られる三尊塼仏と呼ばれる土器が大量に見つかったことからインド仏教の影響が強かったと見られ、そうした教義が人々に受け入れられなくなったからではないかという。
 ここで當麻寺のことが改めて思い出される。當麻寺は火災によって寺勢が一時衰えるが、曼荼羅図という絶大な信仰対象があったことや時代の要求に合わせて有形無形の変革を行ったことで乱世を生き延びてきた。そうした観点からすると、川原寺は天武天皇の特別の庇護はあったものの異国的な雰囲気が強く徐々に人心が離れてしまった、にも拘らずそれに対して適切に修正しようとする積極的な意思がなかった、ということだったのかもしれない。しかし、依然として謎である。
 
 寺跡の草原には修学旅行の中学生男女数人がいた。そこにかつて壮大な寺院があったことを知って来ていたのだろうか。礎石の間を跳んだり塔址の基壇の上でポーズをとったりして楽しそうに遊んでいた。              
                                                          つづく