エッセイ 私の古仏探訪 5

エッセイ 私の古仏探訪 5

紅葉の名所・寺から神社への転身

談山神社    
 奈良の旅行案内を見ると、大抵、談山神社は紅葉の名所で藤原鎌足を祀った神社などと紹介されている。神社とあるからには仏像はないと思い、当初興味はなかった。ところが、聖林寺の縁起には談山神社のもとの寺の別院だったとか、安倍文珠院の釈迦三尊像は談山神社から移されたものなどと言われると、ひょっとして談山神社はかつて寺だったのではないかと思うようになった。
 調べてみると、そこには明治政府の神仏分離政策に翻弄され、それに抗う寺の苦衷の様子があった。以前は多武峰(とうのみね)妙楽寺と称する立派な寺だったのが神仏分離によって止むなく談山神社に変わったということだった。これに大変興味を覚え訪れることにした。

バスを待つ間
 桜井駅から談山神社行きのバスが本数は少ないが出ていた。10時を予定していたが乗り遅れてしまい、次のバスまで2時間待つことになった。辺りには時間つぶしが出来そうなところは見当たらない。幸い陽気はよく、駅前のベンチで居眠りでもするしかない。

 宮廷では新羅、百済、高句麗三国からの朝貢の儀が行われようとしていた。皇極天皇ご臨席の許、蘇我入鹿を始め貴族たちが威儀を正して居並んでいる。上表文が読み始められた。だが奏上者の手が震えだし、声が上ずって様子がいつもと違う。入鹿が不審を抱く。と、そのとき、陰に潜んでいた中大兄皇子と中臣鎌足が飛び出して入鹿に斬りかかった。続いて予定していたのに怯えて動けなかった刺客たちが加勢して入鹿を討ち果たした。皇子はすぐさま飛鳥寺に待機させていた軍勢を率いて父の蝦夷の襲撃に向かう。蝦夷は邸に火を放ち自害した。クーデターは成功した。645年の乙巳の変である。

多武峰縁起絵巻、左:朝貢の儀の上表文読み上げの場面、奏上者の右側に蘇我入鹿が座している。右:中大兄皇子が入鹿を討った場面

 中大兄皇子と中臣鎌足はかつて飛鳥寺の蹴鞠の席で出合ってから親密になった。朝廷では蘇我入鹿が天皇をしのぐ勢力をもち専横を極めていた。二人は入鹿を倒し、新たな国造りをすることで意気投合した。その具体的な計画をたてるため都から遠く離れた多武峰の寺の裏山に入り密議を行った。乙巳の変はそれに従って実行されたのである。

 入鹿が討たれ、蝦夷は自害して蘇我氏は滅亡した。やがて、中大兄皇子は天智天皇になり、鎌足は藤原姓を下賜されて天皇を補佐し、ここに律令制度に基づく新たな国家が誕生した。最初の年号、大化が宣言されたことから、この改革は大化の改新と呼ばれるようになった。

 時がたち、669年鎌足が亡くなった。唐に留学していた長男の僧定慧(じょうえ)は帰国すると鎌足の遺骨を縁のある多武峰の寺に改葬し、そこに十三重塔を建てた。680年には講堂を建て、妙楽寺と命名した。701年鎌足の神像が作られ、それを安置する聖霊院、今の本殿が建立された。その後、幾度も火災に遭ったがそのたびに復興して明治の初めまで存続したのである。
 やっとバスが来た。

多武峰の山並みと駐車場の談山神社入口

神社に向かう
 バスは山間の谷川に沿った曲がりくねった道を多武峰に向かってひた走る。
 30分近く走って終点広い駐車場に着いた。標識に従って道を辿ると神社の鳥居の前に出た。別格官幣大社談山神社と書かれた石碑が立っている。鳥居の両側には多くの石灯篭が並んでいて、後醍醐天皇寄進とされる大きな石灯篭が目に付いた。この多武峰は南朝の勢力下にあった。

談山神社正門付近、奥に赤い鳥居が見える。

後醍醐天皇寄進の石灯篭

山中に点在する朱色の堂宇
 鳥居の正面には見上げるように石段が続いている。登るのが大変そう。朱色の大小の建物が石段の両側に点在している。山の斜面を切り開いた形でそれぞれに高低差がある。
 登るとすぐ右に朱色の華麗な二層の楼門が現れた。そのすぐ右に拝殿の入り口がある。拝殿は外から見ると京都清水寺のような崖の上にせり出した舞台造りの大きな建物である。境内にはモミジの木が多く一帯が緑に包まれている。秋には色とりどりの紅葉になり拝殿からの眺めは素晴らしいに違いない。

鳥居から続く急な石段

石段を登りきると右側に華麗な楼門が現れる。楼門の右手に拝殿の入口がある。

拝殿は崖から張り出した舞台造り

拝殿の南廊下、辺りはもみじの木が多く素晴らしい眺め

 拝殿の内部は畳敷きの大広間で、北側の扉を開いて向かいの本殿を拝するようになっていた。本殿は華麗な造りで日光東照宮のモデルになったという建物で、鎌足の像が祭神として祀られている。

 拝殿の反対側にある出口近くのガラスケースには有名な多武峰縁起絵巻が展示されていた(最初の図参照)。 意外に太い巻物で、乙巳の変の場面が開かれていた。これは写本で本物は国宝として奈良国立博物館に寄託されている。

拝殿内部、入口(図正面)から入り、北側(図右側)の扉を開いて本殿を拝する。

本殿

観音堂、丁度開扉され観音像はライトアップされていた。

多武峰妙楽寺名残の如意輪観音像
 拝殿の出口を出ると小さな観音堂があった。
 ん、神社に観音堂? そう、初めに触れたようにかつて妙楽寺という寺院だった名残である。観音堂には唯一残された如意輪観音像が祀られている。秘仏だが丁度開扉されていた。座高50㎝ほどの小さな像で遠くからでは表情は分からないが、拝殿に置かれた写真を見ると可愛い顔をしていた。
 この像は実は二代目だという。定慧は帰国のとき座高三尺の如意輪観音像を持ち帰った。しかし、1146年にそれは堂の倒壊で失われてしまった。のちに南都仏師によりその模刻が行われ、それがこの像だという。

東殿、恋神社、正面の左側に鏡大王みくじ奉納所、右側には厄を書いた土器を打ち割って厄払いする厄割り石がある。

 この像は足腰の観音様といわれている。足の怪我で歩けなかった人がこの観音像に祈願したところ歩けるようになった。また、この像は堂が火災に遭ったとき一人で非難したという。そうした伝説からこの像は足腰の病に霊験あらたかと信じられるようになった。実は像の右足の甲には大きな損傷があり、それがこうした伝説の元になったらしい。

 観音堂の近くに定慧や弟の不比等を祀った東殿がある。しかし、どういうわけか今では恋神社と呼ばれて若者の人気スポットになっている。

十三重塔、高さ約17m

国宝十三重塔
 正面の階段の左側、拝殿の西側の一段下がったところにこの神社のシンボル十三重塔が立っていた。先に述べたように、鎌足の墓の上に建てられたいわば卒塔婆である。現在の塔は1532年に再建されたもので世界唯一の木造の塔だという。国宝に指定されている。初層は普通の塔と同じように建屋があるが二層以上には建屋がなく、短い軸部を挟んで屋根が重なっている。檜皮葺きで苔が厚く覆っていた。

比叡山延暦寺末寺になったことの災難
 平安初期、妙楽寺はこれらの堂宇を一体の寺院として整備し、やがて寺の格を上げるためか比叡山延暦寺の末寺になった。
 しかし、平安中期から末期にかけて興福寺の僧兵によりたびたび焼き討ちに遭った。鎌倉時代には吉野の金峯山寺衆徒による焼き討ちで全焼した。また、南北朝時代には南朝の拠点にされ、足利軍によって焼かれてしまった。ただ、主な仏像や鎌足の神像は橘寺などに避難させて焼失をまぬかれたという。

 なぜこんなにも焼き討ちに遭ったのか。とくに興福寺による焼き討ちは大きなものは3度もあった。原因は大変複雑だが、一つには藤原政権が自分の氏寺である興福寺よりも朝廷に近い延暦寺などを重視するようになったとして不満を持つようになったこと。さらに延暦寺と興福寺との宗派間の争いや両者の末寺獲得をめぐる抗争などが関わっていた。とくに末寺の獲得の争いは寺勢の拡大につながるので苛烈だった。金峯山寺衆徒による焼き討ちもそのようだったという。
 つまり、この寺が延暦寺の末寺になったことが興福寺や金峯山寺の標的にされた大きな要因だったようで、まさに親への恨みの仕返しとしていじめられたのである。
 興福寺による3度目の襲撃は熾烈極まりなく妙楽寺は完全に焼失した。しかし、延暦寺は静観した。もし延暦寺が動いていたら興福寺との間で大戦になったに違いない。興福寺は朝廷からきつくお咎めを受けたという。

神仏分離の影響
 明治になり神仏分離令が発布された。これには古くから神仏習合を常としてきた多くの寺は非常に苦悩することになった。金峯山寺はすでに述べたように、本尊が蔵王権現であり、本地の仏が神の姿として現れたものとされることから神仏分離は不可能である。そこで白幕で巨大な本尊を隠した。参詣者はいなくなり吉野はさびれて経済的に困窮した。

 妙楽寺の場合も中臣鎌足が埋葬され仏として祭られる一方、神像が作られ神として祀られてきた。本体は鎌足ひとりである。妙楽寺は寺か神社か明治政府からの再三難しい選択をせまられ、やむなく神社を選択することにした。寺を選んだとしても神道を主導したい国の方針の下では先々冷遇されると考え、生き残りをかけたのである。
 名称は中大兄皇子、中臣鎌足二人の密議が行われた場所に因んで談山神社とした。

 寺から神社に変わったことは僧侶たちにとって大問題だった。僧侶はすべて還俗のうえ神主、社人と名を改めるべしとの政令によって、神社に留まることはできず、他の寺に移るか、還俗して普通の生活者あるいは神職になるかなど大変なリストラに遭ったのだった。
 ただ、塔や建物は破壊されず、名称を変えて存続を許されることになった。多くの寺が建物すべてを破壊され、結局廃寺になったのをみるとどのような折衝が行われたのか分からないが、幸運だったと言わざるを得ない。
 現在ほとんどの建物は国の重要文化財や国宝に指定されている。
 
如意輪観音とその祭司
 妙楽寺だった時には多くの仏像や仏典が所蔵されていた。ところが、神仏分離令によってそれらはすべて取り除くよう指示され、他の寺に移されたり廃棄されたりした。廃仏毀釈である。妙楽寺の本尊阿弥陀三尊像も安倍文珠院に移された。そして唯一残ったのが先の如意輪観音像である。

 この像、なぜ残ることができたのか。経緯は分らない。創建者の定慧が唐から持ち帰ったという由緒ある貴重な像の後継像であるとして手放さなかったともいわれるが、そこには当局への粘り強い説得があったにちがいない。
 この如意輪観音像は例年6月に祭が行われ、開扉される。

 そこで、祭りや開扉の際に誰が祭司を執り行うのかが気になった。妙楽寺の時代には僧侶が読経していたはずである。しかし、談山神社になったいま、神職ばかりである。となると、この残された如意輪観音に神職が祭司を行うのかという疑問である。まさか神主が経をあげるわけはないだろうし、祝詞をあげるのも変である。

 尋ねる人が見当たらないので受付にいた若い巫女さんに聞いてみた。しかし意味が分からないようだった。何度か砕いて説明したところやっと判ったようで、社務所に電話で聞いてくれた。それによると、神職が無言で手を叩きながら堂の周囲を回って拝礼する、祝詞も経も唱えないということだった。
 巫女さんは今までそんなこと考えたことがなかったので大変勉強になりましたと言ってくれた。
 神仏分離によって生じたいわば苦肉の策としての祭祀の仕方だろうが、こうした例は他の神社でも起きているはずである。
 
観光名所談山神社
 ここを訪れてみて、前回述べた夕暮れにも拘らず婚活のため出かけた若い女性の気持ちが分かったような気がした。深山の神社のなかに、恋の道、鏡女王(かがみのおおきみ)のお札、縁結びの岩座(いわくら)、恋神社、蹴鞠の庭など色々な仕掛けがなされていて、いかにもご利益がありそうだったからである。

恋の道

鏡大王みくじ、鏡大王は鎌足の正妻

むすびの磐座

蹴鞠の庭(広場)、正面の建物は芸術、芸能の神を祀った権殿、右はかつて阿弥陀三尊像が安置されていた旧講堂、現在は宗教絵画が展示されている。


 ただ、蹴鞠の庭で「中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったところね」なんて話しているのを耳にすると、「ちょっと待ってくれ、話がおかしいだろう」と突っ込みたくなる。
 その蹴鞠はずっと昔600年初め頃、法興寺(飛鳥寺)で行われたことであり、その当事者の鎌足が亡くなってそれを祀るためにこの社が造られた訳だから、そんな話は全く成り立たない、変だと分かるだろうが。
 ここの蹴鞠の庭はかつてこの二人が出会ったことに因んで作られた単なる縁結びの一つの仕掛けなのである。ここでは春秋に古代の貴族の装束を着けて蹴鞠が催される。そんなことから、うっかり中大兄皇子と中臣鎌足の蹴鞠の場所かと錯覚するのかもしれない。
 そうした時間軸を狂わせるような不思議な雰囲気がここにはあるようだ。

 談山神社は紅葉の名所として相応しいが、若者には縁結び、恋愛成就のパワースポットとして魅力的な所であることも間違いなさそうだった。           

                                                つづく