エッセイ 私の古仏探訪 4

エッセイ 私の古仏探訪 4

日本三大文殊の寺・安倍文珠院

 「三人寄れば文殊の知恵」、凡人でも三人集まって相談すると文珠ほどのよい知恵が浮かぶというように、昔から文珠は知恵の仏とされてきた。ここ桜井市安倍の文珠院には日本三大文殊のひとつとされる立派な文珠像がある。
 寺伝によるとこの寺は大化の改新ののち645年に安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)またの名安倍内麻呂によって孝徳天皇の勅願を受けて創建されたとのこと。それは現在の寺の南西ほど近いところに遺跡として残っているが、その広さからすると法隆寺様式の大きな寺院だったらしい。それが鎌倉時代になって現在の地に移り、度々の火災を被ったが、再建されて今日に至ったという。

安倍文珠院の正門

文珠院の本堂と釈迦堂(右)

 西側の表山門を入ると両側に石灯篭が並ぶ石畳の参道が続き、本堂前の広場に出る。本堂は江戸時代1665年に再建された立派な入母屋造りの建物で、正面の部分は礼堂でその奥に本堂がある。建物に入って見るとわかるが、礼堂は実は能舞台で本堂とは分かれている。丁度本堂の前に能舞台を取り付けたような恰好である。
 また、本堂は奥で後補の文珠像を安置する収蔵庫と一体になっている。

本堂の建物の内側。舞台(右)と通路を挟んで本堂の正面(左)がある。

渡海文珠群像の善財童子
 本堂に入る。祭壇の奥に進むと四人の従者を従え獅子の背に坐した文珠菩薩像が現れる。寺ではこの像を渡海文珠群像と呼び、雲海を渡り人々に知恵を授けるための説法の旅に出る姿だという。国宝である。

 菩薩像は等身大だが、獅子の背が人の背丈ほどもあり、その上に蓮華座を置いて座しているため見上げるほどの高さにある。快慶の作で、顔はやや面長で下膨れ、半眼で遠くを見ている面差しで、口もとは引き締まっている。知恵の仏として冷静で理知的な雰囲気がある。
 四人の従者はいずれも菩薩を深く慕う人物という。右手前に立つ善財童子は華厳経に登場する純真無垢な童子で、文珠菩薩の教えを受けたのち、仏の悟りを得るため53人の賢者を訪ね様々な経験をし、多くの知識を得て菩薩の許に戻ってきた。そしてこの旅では先導を務めることになったというのである。
 

渡海文珠群像のうち文珠菩薩(中央)、善財童子(右)、維摩居士(左)

 この群像は有名だが、見るたびに皆が正面に向かっているのに童子一人だけが右に歩く様子、何か逃げだしているようで変だと思っていた。童子は先導役だから逃げだすわけがない。「こちらの方向です」と方向転換を促しているともとれる。獅子は戸惑ったように見える。
 しかし、寺の案内によると、童子は文殊菩薩に呼び止められて、とっさに振り返って菩薩を見ている姿だという。たしかに童子は合掌しているので文珠菩薩の声に応じたとみられる。そうだとすると、童子の向きが違うだろう。つまり、90°左に回転させ顔を菩薩に向くようにしなければならない。当然顔は正面からは見えにくくなる。
 そうすると、この像の顔をよく見せようとするには具合が悪いとでも思ったのだろうか、ここでは顔が正面に向くように敢えて置いたと考えられる。
 でも、本来の形に戻したほうが童子の顔は菩薩に向き、菩薩との関係がはっきりする。
 

 これによく似た像が西大寺にある。童子は体は正面に顔は右斜めに向けて、歩きを止めて合掌しながら文殊菩薩を見ている姿で置かれている。そこでは童子が逃げ出すとか方向転換を促しているなんて見方は成り立たない。

 また、菩薩を載せているこの獅子である。恐ろしい顔をしているが愛嬌も感じられる。何か不安げの表情で首をやや傾け、大きな目玉は善財童子に向けられている。口の様子から何か童子に言っているようだ。菩薩に呼び止められたことで何か確認しているのだろうか。「この雲海の様子で無事に渡っていけるのか」、「方向は間違ってないか」などかもしれない。

 童子の置き方一つでこの群像の意味が変わってくる。個々の像は独立しているのでいかようにも置ける。置き方が重要である。恐らくこの作者である快慶は菩薩と童子の関係、獅子と童子の関係を十分考慮して製作に当たったのではないか。作者の意図は今更確かめようがないが、それぞれの表情から推察して適切に配置しなければならないと思うのだが。個人的には童子は菩薩を見るような形に置きたい。
 このような群像はいろいろ想像を掻き立ててくれるので見ていて楽しくなる。
 

文殊に匹敵する知恵者、維摩居士
 この群像の一番左に立つ老人は維摩居士(ゆいまこじ)である。この像だけは快慶ではなく、室町時代末期の宗印の作である。宗印は前回述べた金峯山寺の蔵王権現像を造った仏師である。
 維摩居士はインドの大富豪だという。在家でありながら仏の教えを深く理解していた。弁舌にたけていて仏法について菩薩といえども論破されるほどだったという。

 そんな例の一つ。居士が病気になったとき論破されるのが嫌で誰も見舞いに行こうとしなかった。そこで、お釈迦様は文珠菩薩に見舞いに行くよう命じた。居士は一丈四方の小さな部屋に臥せていたが、文殊の来訪で起きて脇息に身をゆだねながら仏法について議論をふきかけた。この討論に何か得るものがあるのではと多くの菩薩や天人たちが見物に集まってきたというのである。
 維摩居士は文珠に引けを取らない仏法に優れていたという話である。

 この文殊菩薩と維摩居士の討論の情景は法隆寺の五重塔の内部東の面に塑像で作られていて、かなり昔から知られた話のようである。しかし、筆者はこの話知らなかったので、かつて法隆寺でその塑像を見たとき何の情景かさっぱりわからなかった。機会があったら改めて見てみたい。
 その維摩居士がこの旅のお供についた。文珠にとっては大変頼りになる仲間を得たのである。
 

阿弥陀三尊像から転身した釈迦三尊像
 本堂の東側に棟続きに釈迦堂がある。ここには立派な釈迦三尊像が安置されている。
 三尊像のうち中尊の釈迦如来像は丈六の座像で、脇侍は日光、月光菩薩の立像である。江戸時代初期に修理されているが金箔がよく残っている。

 実はこの像、次回予定の談山神社の本尊だったのが廃仏毀釈を避けてここに移されたものだという。そして面白いのは、談山神社では阿弥陀三尊として祀られていたということである。阿弥陀像が釈迦像に変わったのである。そんなことが可能なのかと思って早速印相、手の組み方を見た。普通これで判定することが多いからである。すると、OKサインのような形の説法印で、釈迦像によく使われるが阿弥陀像にも使われるというものだった。つまり、印相だけではどちらとも決められないことがわかった。恐らく、文珠院では多くの作例からみて釈迦像としたのではないかと推察した。

浮御堂
 本堂の前の池の中にはきれいな浮御堂が建っている。これは1985年に建てられたという新しい建物である。入口近く池の端に阿倍仲麻呂の歌碑と並んで比較的新しい石灯篭が建っていた。そこには安倍晋三内閣総理大臣と書かれていた。在任中に献灯したものらしい。最長期政権を維持できたのもこのお蔭だったのかもしれない。

浮御堂

阿倍仲麻呂の歌碑と安倍晋三寄進の石灯篭

 浮御堂の外廊は回れるようになっていて、七回まわる毎にお参りすると七難除けのご利益が得られるという。堂内には弁財天が祀られ、阿倍仲麻呂、安倍晴明の像が置かれていた。そのわきにはいくつかの位牌が安置されていたが、手前には安倍晋三と書かれた真新しい位牌があった。それを見ていてふっと思った、災難除けの祈祷はされなかったのだろうかと。
 ここが安倍一族の氏寺であることが改めて印象付けられた。

信太森葛葉稲荷社

稲荷社と葛葉伝説

 本堂の東の丘には稲荷社がある。信太森葛葉稲荷(しのだもりくずはいなり)を祀った社だという。それは大阪市泉区にある信太森稲荷のご神体である。

 かつて安倍保名(あべのやすな)という男がいた。彼はその稲荷を篤く信じていた。ある時、狩人に追われた白狐を助けたが手傷を負ってしまった。すると、葛葉という女性が現れて介抱してくれた。やがて二人は相思相愛の中になり、そして生まれたのが後の晴明だった。晴明が五歳になった時、母葛葉がかつての白狐だったことが分かってしまう。

 こうした伝説から、晴明の生誕地であるこの文珠院の丘に信太森葛葉稲荷を祀ったというのである。白狐はこの稲荷の化身だったということらしい。この話は葛の葉伝説として歌舞伎や浄瑠璃などに広く翻案されている。

西古墳の入口。稲荷社の丘の下にある。

西古墳
 この稲荷社の丘の下に特別史跡に指定された西古墳がある。飛鳥時代に造られたといわれ、この寺を創建した安倍倉梯麻呂の墓だという。乙巳の変のあと中大兄皇子が皇太子になったとき左大臣に任命され、大化の改新を主導したとされる人物である。古墳は645年当時のままの形で保存されているといい、今は弘法大師作と伝わる不動像が奥に祀られていた。

 このほか石仏や東古墳、白山堂、晴明堂などいろいろ見どころが多く、興味深い寺だった。

 寺の売店では亀の形をした「かめパン」を売っていた。それは固いパンで、噛むことで脳の活性化になるという。この寺では災難除けや合格祈願に加えてボケ封じの祈祷も行っていてその流れでこのパンを売っているらしい。でも、年寄りにはそんな固いパンは歯が痛くなって期待するほど噛めるかどうか、結局見ただけにした。
 
 数年前の12月、この寺を初めて訪れようとした時、桜井駅を降りてバスの時刻表を見るとまだ4時をわずか過ぎたばかりだというのにもうバスが終わっていて、途方に暮れていた。すると、若い女性が談山神社までタクシーで行くので、文珠院だったら途中なので乗っていきませんかと声をかけてきた。渡りに船とばかり、同乗させてもらった。しかし、文珠院から談山神社までは30分近くかかる筈だ。何故かと尋ねると、二十二歳になり婚活を始めたところで前に文珠院をお参りしたので今度は談山神社に行くのだという。
 確かに、文珠院にはイザナギノミコトとイザナミノミコトの縁を取りもったという神を祀った白山堂があるし、晴明堂にはどのような望みもかなえてくれるという石の玉があったりして、縁結びの寺としては十分である。談山神社も恋愛成就、良縁成就を謳っている。どちらも婚活には向いていそうである。
 だが、12月の夕方に向かうこの時間に山深い神社に行くというのは、街に出た白狐が山に帰るというならいざ知らず、若い女性が一人で出かけるのは如何なものかと思いながらいろいろ話を聞いたが、八十過ぎの年寄りには理解の枠を超えていた。文珠院で降りるとき、乗ってきた料金を僅かに超えるものを渡しながら、願いはきっと叶うよ、十分気を付けて行きなさい、と言うのが精いっぱいだった。
 前回そんなことがあったな。あの女性、若くて美人だったしかなり積極性があったので、もう気に入った男性を見つけたのではないかな、などと思いを馳せながら文珠院を後にした。

                                                  つづく