第7回 おかしな話三題

第7回 おかしな話三題

 今回は,短編3話からなります.

 日常の中で感じた,少し可笑しい話を,藍先生の目線でお話しくださいます.

第一話 (2018年2月2日)

 教室をもってしばらくした頃だった。当時はまだ咬合が全盛期で、臨床家の間でも熱心に勉強する人たちが多くいた。東京からさほど遠くない県の歯科医師会から咬合についての講演依頼があった。講演は土曜日の午後だったので、午前中に家を出て指定された会場へ向かった。その公民館の講堂にはすでに60人くらいが集まっていた。演壇の右側には演題と演者の名前が書かれた垂れ幕が下がっていた。
 県歯科医師会の執行部の方々と挨拶を交わしたのち、会場に入り待っていると担当の歯科医師が先に送った講演要旨の印刷したものを配りだした。自分の手元に来たものを念のためにとおもって目を通すと、咬合がすべて交合となっている。これはさすがにまずいと思って、すぐに担当の方に訂正してほしいと言った。その方はそれをもっていき、暫くして訂正したものをもってきた。
 垂れ幕には「咬合についての…」なんてまともに書いてあるのに、どうして講演要旨には交合となっているのか。担当者がわざとそうしたとは考えられない。交合の意味を知らないのか、ひょっとしてどちらも同じと考えていたのか。まさかそんなことはあるまい、見直ししなかったのか、など一瞬考えてしまった。すぐ配布したものを差し替えてもらった。
 端くれだが一応補綴学者であり、性科学者ではない。とてもそんな領域外の話はできるわけがない。最初に配布された講演要旨を見てそう考える人はいないと思うが、咬合と交合は天地ほどの違いがある。
 後で気が付いたのは、パソコンでコウゴウと打つと最初に変換で出てくるのは皇后、つぎが交合で、咬合は術語として入力しておかないと出てこない。でもこれは自分の使っているパソコンだけかもしれない。この皇后、交合が日常的に使用頻度が高いとは思えないが、ほかにコウゴウに対応する単語がないので無理につけているのだろう。パソコンで書くときは注意が必要で、見直しはかかせないことを教わった一件である。

第二話

 人に誘われ、断ることが出来ずあるパーティに家内を連れて出席した。参加者はみなドレスアップして男性はタキシードで正装していた。自分たちは多少よそ行きの格好で出たが、どうも居心地が悪く、やはり来るべきではなかっと話し合っていた。誘ってくれた人と二、三人の方のほか、誰も知った人はなく、高級そうなワインやカクテルをすすめられても下戸ときてはどうしようもない。水で我慢するしかなかった。
 そこにはある高貴な方も見えていて、参加者は入れ替わり立ち代わり傍に行ってご挨拶をしている。そのうち誘ってくれた人が「先生もご挨拶にお出かけください」なんていう。その人はそのパーティの主催者の一人だった。そこで止む無く、家内ともどもでかけた。主催者が我われを紹介してくれたので、名前をまず申し上げた。すると、「あいなんておかしな名前だね」と言われた。初対面でいきなりそう言われると、なんて返事をしたらよいか。だまっていると、「専門はなに」というのであえて「義歯に関することです」と答えると、「ああそれは補綴ね」という。こちらは最初から補綴だなんて言うと、「それなに」と聞かれるだろうと思って忖度したのだか、見事に空振りを食らったのだった。それから二言三言話したが、話が噛み合わず嫌になって早々にその場から退散した。
 高貴な方なんてやはり世間知らずで、上から目線でとても付き合えない。おかしな名前だとしても自分で付けたわけでなく、ご先祖様少なくとも五代前から藍を名乗っている。いまさらよほどの理由でなければ改姓できない。初めて聞いておかしな名前だと思っても普通は口に出さないものだろう。それを名乗ったとたんに言うというのは、子供か昔のバカ殿くらいではないか。
 その帰り、家内に「不愉快だったな」というと、「あなたも言葉にはきをつけなさい。よく人に向かってバカだな、というが、口癖や軽い気持ちで言っていても、言われた方は不快になる」とたしなめられた。あの人と同類だったのか、でもあれは度が過ぎやしやいか。
 以来、テレビや新聞の写真でみかけるとこの時のことが思い出されて、おかしな人もいたもんだと改めて思うのである。

第三話

図1.豊太閤御歯

 ひとり気ままな生活をしているなかで、突如出かけようと思い、すぐ宿と鉄道の切符を手配して翌日には新幹線に乗るということを時々やっている。昨年暮れ、観光シーズンも終わり、どこもすいている。暇な老人が出掛けるには具合がいい。
 関西のいくつかを回った後、京都に途中下車した。向かう先は豊国神社である。かねがね行って見たいと思っていたが、いつも後回しになって行かずじまいになっていた。今回はそこだけを目標にして降りたのである。
 場所は京都国立博物館の敷地の北隣で、京都駅からそれほど遠くない。だがオフシーズンだというのに、駅周辺は外国からの観光客でごった返していて、バスも満員で大きな荷物で通路をふさがれ、降りるのが大変だった。
 神社には参拝する人はなく、閑散としていた。社殿の右側に蔵のような建物があり、それが宝物館だった。そこにお目当てのものがあるはずだった。中に入ると、だれもいないでがらんとしている。有名な千成瓢箪や秀吉ゆかりの品々が展示されている。歩くと床のギシギシする音が反響して異様に感じられる。老朽化しているためだろうが、防犯にはいいかもしれない。入り口近くのガラスケースのなかにはそれは恭しく展示されてあった。秀吉の歯である。豊太閤御歯と大きく書かれた札がついている。
 それは舎利容器のようなガラス瓶の中に綿に載せた形で入っているようだった(図1)。実はガラスケースとこの容器が光を反射して中のものが良く見えない。そのため、わきに拡大された写真が置かれ、そこには左上顎第二大臼歯とあった。
 よく見ると確かに大臼歯の形をしている。歯根付近が歯石で覆われていて、高度の歯周病で自然脱落したように見える。傍に展示されてある覚書に慶長元年1596年とあるところからすると、秀吉が亡くなる二年前、60歳ごろのことになる。

図2.覚書

 その覚書、大きな和紙に覚として、一 歯 壱本 其方へ預ケ置候也 慶長元年極月秀吉(朱印)加藤左馬助トノへ、と書かれている(図2)。加藤左馬助とは加藤嘉明のことで、加藤清正や福島正則らとともに幼少期から秀吉に仕えた豊臣恩顧の大名で、松山城主である。秀吉に伺候した時に拝領したのかもしれないが、彼はどんな顔をして受ただろうか。大変ありがたいと思ったか、嫌だけど仕方なく受けたか。おそらくこれ程のものはないと有難く頂戴したのだろう。だからその後の厳しい豊臣弾圧の徳川政権時代をかいくぐり、400年以上にもわたって大切に代々受け継がれ、今日に至ったと思われる。でも一方、自分の抜けた歯を其方へ預け置くというのは、如何にも上から目線で、権力を笠に着た秀吉の嫌らしい品のなさを感じる。とても仕えたくない人と思うのは自分だけだろうか。
 長く生きていると、いろいろおかしいと思われることに出くわすようである。