エッセイ 私の古仏探訪 7

エッセイ 私の古仏探訪 7

柳生の名刹

円成寺の入口。柳生街道に面して鬱蒼とした木立に囲まれている。

円成寺    
 さて、いよいよ円成寺。仏像マニアなら誰でも一度は行って見たいと思う寺である。創建は756年聖武、孝謙両天皇の勅願で唐の僧虚瀧が創建したと伝わるが、史実としては1026年僧命禅(みょうぜん)が十一面観音像を祀ったのが始まりらしい。

 ここには素晴らしい運慶作の大日如来像がある。ただ、交通の便が悪く、奈良駅からバスが出ているが本数が少ない。朝早い柳生行きの便に乗る。30分ほどで寺の門前に着いた。あたりは静寂に包まれ、遠くから鳥のさえずりだけが聞こえる。
 門を入ると緑に囲まれた見事な庭園が広がっていた。大きな池をめぐる浄土式回遊庭園である。庭園の奥の木の間に立派な楼門と朱色の多宝塔が見える。池の端の道を回り楼門脇の階段を上るとすぐ宝物殿があった。ここにお目当ての大日如来像が安置されている。

回遊庭園の池をめぐる道。この先右側に楼門、宝物殿への入り口の階段がある。

池の向こうに立派な楼門が見える

運慶作の大日如来像

運慶作の大日如来坐像
 宝物殿に入る。8畳くらいの部屋の中央に須弥壇が設らえられ、その上に大日如来像一体だけが蓮華座に載っていた。丁度目の高さに像の顔があり、どの方向からも見ることができる。
 落剝が多いが下地が漆黒でなく茶色味を帯びているところがいい。頬の膨らみは少なく横から見ると目のあたりから口もとにかけてなだらかである。体躯も引き締まって背筋が伸びていて若々しい感じがする。
 運慶像の特徴の一つ、鼻根部が凹んでいる。古い仏像では眉の高まりが鼻梁にかけてそのまま移行していて鼻根部がはっきりしない。日本人の顔では両目を結ぶ線のあたりは窪んでいる。運慶はこれを再現しようとしたという。この大日如来像が写実性を重視した鎌倉彫刻の先駆けというのは確かである。
玉眼が使われている。半眼で正面からはわかりにくいが、床に座って目を合わせるとわずかに光るのが分かる。

 誰も来ない。聖林寺の場合と同様、国宝の独り占めである。ガラスケースなどはなく手を伸ばせば像に触れられるほどの近さである。見ているうちにふっくらした頬を撫でてみたくなった。危ない危ない。理性がしっかりしているうちはいいが衰えてくるとどうなるかだ。かつて国宝最初に指定された京都広隆寺の弥勒像が何者かに触れられて指が破損したことがあった。素晴らしい像には何か人を引き付けるものがあるらしい。
 ここには監視カメラはあるが性善説に頼っているのだろうか。これが博物館に展示されるとなると絶対こんなには近づくことはできない。

蓮華座裏の墨書
 須弥壇の前に丸い板が立てかけてあった。見ると何か書かれている。
 大正時代この像を調査した際に座板の裏に墨書が見つかり、運慶が書いたものとわかったとして、立てかけてあった板はそれを模したものだった。
 墨書は「大仏師康慶実弟子運慶が注文を受けて納めた」とあって、日付も入っている。これによって若い運慶が父康慶の指導の下でこの像を造ったことがわかった。
 数ある運慶の作品の中でこの大日如来像は彼の最初の傑作で仏教美術史上大変重要な作品となったのである。好きな像の一つである。

 外に出ると、右に朱塗りの多宝塔、左に本堂が見える。本堂は前の庇が大きく張り出した特異な形で、平安時代の阿弥陀堂を室町時代に再建したものという。ここには平安後期、大日如来像よりやや早く造られた阿弥陀如来像が本尊として祀られている。豊満で穏やか顔、胸から上腕にかけて厚く重量感がある。衣の彫りが浅く、いかにも藤原貴族の好みそうな定朝様式の像で、古いにもかかわらず落剝が殆ど見られなかった。

 楼門は応仁の乱の後に再建されたというが軒の木組みが見事で格調が高い建物である。多宝塔は近年再建されたものだった。
 市街から離れていて来にくいが、大変落ち着いたいい寺であった。また訪れたい。

国際的な仏教大学だった古刹

大安寺
 大分昔、観音仏像展に出かけた。多くの仏像の中に口をわずかに開いた像が目に留まった。馬頭観音以外には口を開いている像は見たことがなく、珍しいと思った。口の中を覗くと歯列や舌など人とおなじように精巧に作られていて感心した。案内には楊柳観音、大安寺蔵と書かれていた。以来、この像とその大安寺に興味を持つようになった。

 しばらく経って大安寺を訪れた。南都七大寺の石碑が建つ南門を入ると、右手に収蔵庫を兼ねた宝物殿が建っていた。そこには楊柳観音を含む7体の立像が壇上に安置されていた。それはまさに収蔵庫で奈良時代の貴重な仏像の住まいとしてはあまりに簡素という感じがした。
 外に出て改めて案内をみると、奈良時代には平城京の中でも最大級の寺院で、当時の仏教界のリーダーであったと書かれている。すでに夕暮れも近く、辺りは閑散としていて人影がない。改めて来ようと思って寺を後にした。
 それから数年経って今回の訪問である。

大安寺伽藍縁起
 この寺の創建は大安寺伽藍縁起並流記資財帳によると、聖徳太子が天下太平、万民安楽の祈りの場として建てた平群(へぐり)の熊凝精舎(くまごりのしょうじゃ)をのちに舒明天皇になる田村皇子に国の大寺にするよう遺言され、天皇はそれに従ってその精舎を百済川のほとりに移し百済大寺を建立。それがこの寺の始まりとされている。その後、明日香に移り高市大寺そして大官大寺となり、平城遷都に伴って現在の地に移り大安寺として発展した。しかし、やがて度重なる災難と時代の変化によって衰退したという。

 そこで今回は寺が辿った跡を確かめ、そのあと寺を訪ねることにした。
 まず、平群の熊凝精舎である。平群は法隆寺の北西にあるが、この精舎がどこにあったのか諸説あるがはっきりしない。現在の額安寺が熊凝山を山号とすることからこの地といわれたこともあったが今は否定されている。中にはこの話は寺が聖徳太子との縁を創作したもので熊凝精舎の存在自体が疑わしいという説もある。よって今、確かめようがない。
 次は舒明天皇が建立したという百済大寺である。

吉備池廃寺跡。20数年前に百済大寺の跡であることが分かった。

百済大寺址
 百済大寺も最近まで所在が分からず、奈良県広陵町にある百済寺がその後継寺院とされたが異論も多かった。ところが、1996年桜井市の吉備池の護岸工事のため調査したところ寺の跡が発見され、吉備池廃寺跡と命名された。翌年から本格的な学術調査を進めると意外に大きな寺院跡であることが分かり、これこそが百済大寺の跡と公認されて一件落着した。

 行って見ると、吉備池は安倍文珠院から西に1㎞ほどのところにある大きな池で住宅に囲まれていた。ここに至る道標はなく、タクシーの運転手も迷っていた。池のほとりに案内板があったほか何もなく、これから本格的な発掘調査が行われるようだった。

高市大寺、大官大寺址
 
百済大寺ができた後、壬申の乱で勝利した天武天皇は即位後まもない673年に高市大寺の造営を始めた。この地ははっきりしないが天香久山(あまのかぐやま)の西の橿原市木之本町が有力らしい。しかし、まだ寺が完成しない677年にそれを明日香村小山に移し大官大寺と改名した。
 なぜこんな短期間に移したのか。それは藤原京造営に組み入れるためだったと考えられている。

 明日香小山に行ってみる。辺りは一面田んぼだった。草原を予想してそこで昼食をとろうとしていたが全く当てが外れた。どこに大官大寺跡があるのか見渡してもそれらしいものはなく、ただ遠く田んぼの中に柱がぽつんと立っているのが見えた。近づくと大官大寺址と書かれた石碑だった。寺の礎石などは全く見当たらずただ普通の田んぼばかりで、寺域がどのくらいだったのか全く分からなかった。

 礎石は明治の初めにすべて撤去されて近くの橿原神宮造営に転用されたとのこと。ただ、飛鳥のバス停の裏の空き地には使われなかった大きな石が無造作に積まれ、草に覆われていた。

大官大寺があったとされる地

大官大寺の塔址

大安寺の正門

大官大寺から大安寺へ
 大官大寺はやがて平城遷都に伴い現在の地に移り、716年に金堂造営が開始された。僧道慈が唐から帰国すると本格的に堂宇の造営が進み、大安寺と名を改めた。やがて七堂伽藍が完成し、南大門の南には七重の大塔がそびえ、東大寺、西大寺に対して南大寺と呼ばれるような壮大な寺院になった。
 大安寺縁起並流記資材帳には、大安寺に居住して学問を収めた人たちの名前が記されている。最澄、空海そしてそれぞれの師、また菅原道真の名も見える。さらにインド、唐、ベトナムからの僧の名も記されていて、887人の僧が起居していたことがわかる。奈良時代にはこの寺はまさに国際的な仏教大学の様相を呈し、官制の学問寺として優れた僧を多数輩出し、仏教界の中心的存在だった。
 しかし、それらの堂宇は度々の火災で焼失してしまう。そのたびに再建されたものの規模は次第に縮小し現在の形なったという。
 いま大安寺は奈良駅から南へ2㎞ほどのところにひっそり建っている。かつての寺勢は全く想像がつかない。

大安寺中門跡と新しく建てられた宝物館

大安寺讃仰堂と楊柳観音像
 寺を訪れる。南都七大寺の石碑が立つ南門を入ると正面に瀟洒で立派な宝物殿讃仰堂が目に飛び込んできた。クラウドファンディングによって2023年4月に完成したばかりだという。境内もきれいに整備されていて前来訪時のさびれた感じはなく、寺の再建への活力が感じられた。

本堂、左奥に嘶堂

 宝物殿の左に建つ本堂には十一面観音、嘶堂(いななきどう)には馬頭観音が祀られているが、ともに秘仏で拝観できない。宝物殿には中央に仏像を安置する礼拝堂、その左右には寺の縁起が書かれた書物や出土した大官大寺の瓦などの展示室や資料室などが設けられていた。

 礼拝堂は照度が落され、広い須弥壇上には不空羂索観音を中央に、その左右に聖観音、楊柳観音の各立像が、その両側に四天王像が分かれて配置されていた。荘重な雰囲気の中で各像にはスポットライトが当てられていて、どの像もところを得たように生き生きと見える。置かれる環境によって如何に感じが変わるかを実感した。いずれも天平時代の木造で素木のように見えるがそうではなく、裳のあたりに彩色の跡が残っていた。

楊柳観音像

 楊柳観音像は台座を含む一木造りで、僅かに口を開き、目を吊り上げて怒りの表情が伺える。観音菩薩は願いに応じて三十三に姿を変えて現れるという。この像が慈悲に満ちた姿ではなく怒りを含んだ表情をしているのも そうした一つの変化像と考えられる。しかし、資料によれば空海以前の初期の密教像だという。柳の枝を持っていることから楊柳観音と呼ばれるが、本来の名前は不明のようだった。
東西の大塔の跡
 門を出ると南に東西の塔の跡がある。塔は仏舎利を収めた建物であり金堂と共に寺にとって重要で、ほとんどの寺院では塔は門の内側にある。だが、ここでは門の外に建てられている。理由ははっきりしないが、唐からの留学僧を通じて新しい形として建てられたのではないかといわれている。こうした伽藍の配置は大安寺様式と呼ばれている。

 塔跡まで門から500メートル近くはあろうか、意外に離れている。途中に鬱蒼とした木々に囲まれて八幡神社があった。大安寺の鎮守である。森を抜けると視界が広がり、はるか東と西に碑が立っているのが見える。東塔は基壇が復元され礎石も僅かに残っていて、その広さから塔がいかに大きかったかが伺える。七重の塔だったという。西塔跡は基壇の復元はされていないが碑の前にある大きな心柱の礎石以外には礎石は見当たらない。それらの礎石は盗掘されたとのこと。明治の初め廃仏毀釈が行われていた頃、そうした大きな石は売るためによく盗まれたらしい。

東塔跡

西塔の心柱の礎石

 西塔の心柱の礎石には割った跡のような溝ができていた。これには伝説があって、ある石工が石を割って掘り出そうとくさびをたたき込んでいると、突然血が噴き出てきたので驚いて割るのをやめた、その跡だという。
 辺りに人の姿はなくひっそりとした草原、栄枯盛衰とはこういうことかと感無量だった。
僧房跡と瓦の窯跡 
 寺の北100~150mほどのところに僧房の跡が保存されていた。予想していたよりも広い範囲を占めていて、柱の礎石が数列並んでいてその間隔から僧房の個々の大きさや全体の規模が実感される。
 また、それより北に離れたところに杉山古墳がある。ここも大安寺の境内だったところで、古墳の麓で寺の瓦を焼いていた跡がある。かつて瓦を干したであろう広場の隅に、瓦を焼く窯跡が復元されていた。この寺だけでなく当時盛んに建てられていた寺々にも供給されていたらしい。

大安寺僧房跡。大きな柱の礎石が並んでいる。

杉山古墳と瓦の製作された広場。右奥の建物内に窯跡が復元されている。

 大安寺は奈良市街にありながらあまり知られていない。訪れてみても仏像に興味がない人にとっては何の変哲もない小さな寺としか映らないだろう。しかし、寺の歴史を知り、塔跡や僧房跡などを実際に巡ってみると、この寺が奈良時代には東大寺に匹敵する大きな寺院だったことを改めて実感するに違いない。(2024.9.20)                 
 
                            つづく