トレハロース輸送体がネムリユスリカ由来培養細胞の乾燥からの生命活動再開の鍵であることを発見
-役立つ物質であっても、不要になったらサッサと捨てる-

動物培養細胞は、医薬品の開発などに広く使われています。動物細胞を長期間保存するには、液体窒素を使って-200℃近い超低温で細胞を凍結し、超低温を維持する方法が広く用いられています。しかし、凍結状態を維持するためには液体窒素の供給や超低温フリーザーへの電源供給を継続する必要があり、温度管理に多くのコストがかかります。一方、生物のなかには、常温、乾燥状態で10年以上も生命活動(代謝や細胞増殖)を完全に停止していても、水を得ることで再び生命活動を再開できるものが存在します。このような生物は乾眠1)生物と呼ばれ、乾眠生物の多くは、乾燥保護物質であるトレハロース2)を体内に大量に蓄積する事によって乾燥のダメージから細胞を守っています。しかし、乾眠性を持たない動物細胞にトレハロースを蓄積させ、乾燥させただけでは、再水和後に代謝と増殖は再開せず、細胞が破裂してしまいます。
そこで、農研機構を中心とした共同研究チームは、乾眠昆虫であるネムリユスリカ3)由来で乾燥からの生命活動再開能力を持つ培養細胞 Pv11細胞4)を用い、再水和による生命活動再開のメカニズムの解明を進めています。
本研究で研究チームは、新たに発見したトレハロース輸送体 STRT1が再水和時にトレハロースを効率よく細胞外へ排出することで、急激な浸透圧変化を抑え、水分の細胞内への流入による細胞の破裂を防ぐという重要な役割を果たしていることを、初めて明らかにしました(図1)。
さらに研究を進め、乾眠メカニズムの全容が明らかとなれば、このしくみを利用して、動物細胞の生命活動を一時的に停止した状態で長期常温乾燥保存できる技術の開発につながることが期待されます。
<関連情報>
予算:JSPS 科学研究費助成事業 (22H00372; 25252060; 26850216; 23KJ0537; 12J110839)
JST次世代研究者挑戦的研究プログラム (JPMJSP2108)
問い合わせ先など
研究推進責任者:農研機構 生物機能利用研究部門 所長 立石 剣
研究担当者:同 生物素材開発研究領域 グループ長 黄川田 隆洋
研究員 吉田 祐貴
茨城大学 農学部/応用生物学野 准教授 菊田 真吾
東京大学 大学院新領域創成科学研究科 先端生命科学専攻
博士課程(当時) 水谷 晃輔
博士課程(当時) 布施 寛人
博士課程 中西 瑛太
東京医科歯科大学 難治疾患研究所 助教 宮田 佑吾
広報担当者:農研機構 生物機能利用研究部門 研究推進室 遠藤 真咲
※取材のお申し込み・プレスリリースへのお問い合わせ
(メールフォーム)https://www.naro.go.jp/inquiry/index.html
東京大学 大学院新領域創成科学研究科 広報室 蘭 真由子
茨城大学 広報・アウトリーチ支援室 山崎 一希
東京医科歯科大学 総務部総務秘書課広報係
※農研機構(のうけんきこう)は、国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構のコミュニケーションネーム(通称)です。
新聞、TV等の報道でも当機構の名称としては「農研機構」のご使用をお願い申し上げます。
開発の社会的背景
現在、動物細胞を長期保存する際には、一般的に超低温冷凍技術が用いられています。超低温冷凍は安定的な技術ですが、凍結状態を維持するためには液体窒素の供給や超低温フリーザーへの電源供給を継続する必要があるため、温度管理に多くのコストがかかります。また、災害などにより液体窒素や電源の供給が絶たれる状況になると、貴重な生物素材や遺伝資源を一気に失う危険があります。
そこで近年、新たな細胞保存技術として、乾燥を利用することが模索され始めました。欧米を中心に動物細胞の常温乾燥保存技術の開発が試みられてきましたが、長期保存可能な技術の確立には至っていません。
研究の経緯
農研機構、茨城大学、東京大学、東京医科歯科大学、順天堂大学の共同研究チームは、動物細胞の常温乾燥保存技術の開発を目標に、Pv11細胞が乾燥状態から生命活動を再開するメカニズムの研究を行ってきました。
研究の内容・意義
概要:Pv11細胞が乾燥状態から代謝と増殖を再開する過程に重要な役割を持つタンパク質であるトレハロース輸送体STRT1(Sodium-ion Trehalose Transporter 1)を新たに発見しました。
具体的な研究内容:
1. Pv11細胞の再水和時に発現する糖輸送体遺伝子の発見
Pv11細胞が乾燥状態から水を得て生命活動を再開する過程で何が起きているのかを明らかにするために、Pv11細胞の遺伝子発現解析を
行った結果、乾燥状態から水を得て生命活動を再開する過程で、糖輸送体5)遺伝子の一つであるg4064遺伝子の発現が上昇することを発
見しました。
2. 発見した遺伝子を壊すと乾燥させたPv11細胞の再水和生存率が減少
ゲノム編集技術を用いてg4064遺伝子を破壊したPv11細胞を作製しました。g4064遺伝子が壊れたPv11細胞では、通常のPv11細胞に比
べて再水和後の生存率が大きく低下しました。
3. 発見した遺伝子=ナトリウム依存型の新規のトレハロース輸送体STRT1
g4064遺伝子をカエル卵母細胞や哺乳類細胞で発現させてこの遺伝子の機能を調べた結果、細胞内外のナトリウムイオンの濃度差に応じ
てトレハロースを細胞へ取り込んだり、逆に排出したりするトレハロース輸送体の機能をもつことが分かりました。この機能から、
g4064遺伝子がコードするタンパク質をSTRT1と命名しました。
4. STRT1が乾燥Pv11細胞に蓄積したトレハロースを効果的に排出
Strt1遺伝子が壊れたPv11細胞(STRT1変異株)はトレハロースの排出能力が低下していました。乾燥から細胞を保護するために必要だ
ったトレハロースは、再水和の時には細胞内の浸透圧を急激に上げて細胞にダメージを与えるため、水分を得て生命活動を再開する際に
はいち早く細胞外へ排出する必要があります。STRT1変異株ではトレハロース排出機能が損なわれた結果、細胞内への水分の流入を止
められず、細胞の破裂(細胞死)が引き起こされたと考えられます(図1)。
今後の予定・期待
用語の解説
体内のほとんど全ての水分が無くなり、呼吸を含めた一切の代謝が完全に止まっても、再び水に浸せば元通りの代謝を再開できる生命現象のこと。クマムシ、アルテミアの卵、ワムシなど無セキツイ動物でも認められます。酵母のような微生物でも確認できる現象。乾燥状態で長期保存できる植物の種も、乾眠の一例。ヒトを含めたセキツイ動物には乾眠できる生物はいません。
2) トレハロース
ブドウ糖が2分子結合してできた糖の一種。ネムリユスリカは、乾燥状態になると体重の20%に相当するトレハロースを蓄積します。大量のトレハロースが蓄積した細胞は乾燥に対する耐性が高くなる事が知られています。身近な例では、パンの発酵に使うドライイースト(乾燥酵母)が生きたまま乾燥状態で保存できるのも、酵母細胞内に大量に蓄積したトレハロースのおかげです。
3) ネムリユスリカ
アフリカの半乾燥地帯に生息する乾眠できる能力をもつ昆虫。800万種以上存在する昆虫の中で乾眠できるものは、ネムリユスリカとマンダラネムリユスリカ(近縁種)の2種のみです。
4) Pv11細胞
ネムリユスリカから作られた培養細胞。現時点で世界唯一の常温乾燥保存可能な動物培養細胞。乾燥させたPv11細胞は、常温で1年間放置しても、培地を加えるだけで再び増殖を再開することができます。
5) 糖輸送体
トレハロースなどの糖はそのままでは細胞膜を通過することができないので、細胞膜には糖の出し入れを行う、糖輸送体といわれるタンパク質が存在しています(図2)。

図 2 糖輸送体の機能モデル
発表論文
DOI: 10.1073/pnas.2317254121(2024年3月29日公開)
研究担当者の声

生物機能利用研究部門 生物素材開発研究領域
機能利用開発グループ長 黄川田隆洋(写真左)
論文筆頭著者の水谷晃輔さん(東京大・研究当時、写真中央)と共同責任著者の菊田真吾 准教授(茨城大、写真右)と我らが愛機の高速液体クロマトグラフ(HPLC)(2代目)と共に。水谷さんにとって、初投稿論文がPNASに掲載!トレハロースの定量で大活躍したHPLCが一番の功労者かもしれません。酷使気味ですが、これからも良いデータを出し続けてほしいと願っています。