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近代小学校のあけぼの~錦華小学校と夏目漱石


近代小学校のあけぼの~錦華小学校と夏目漱石

JR お茶の水駅から駿河台下方面へ下っていくと、右手に明治大学のリバティタワーがそびえています。その裏手にまわったところにあるのが、千代田区立お茶の水小学校・幼稚園。 ここに、明治の文豪、夏目漱石がこの小学校で学んだことを記念する石碑が建っています。

吾輩は猫である 石碑 お茶の水小学校は、明治7年創立の錦華小学校と、近隣の小川小学校、西神田小学校が統合し、平成5年に現在の名称となりました。 日本の近代的な学校教育制度は、明治5年に発布された「学制」に始まります。それは全国を8つの大学区にわけ、さらに1大学区に32の中学区、1中学区に210の小学区を設け、それぞれの学区ごとに大学校、中学校、小学校を設立するというものでした(翌年、大学区は7区に変更されます)。

1867年、まさに明治維新の前夜に生まれた漱石は、この新しい教育制度の申し子であり、明治を代表する知識人としての一歩をスタートすることになります。
ただし、幼年時代の漱石はなんとも落ち着かない環境のなかに置かれていました。
まず、五男三女の末っ子として生まれたためか、すぐに里子に出されます。しかし、あまりに粗末に扱われているとして、すぐに実家に連れ戻されますが、また、すぐに養子に出されます(晩年に書かれた自伝的小説「道草」は、この養父母に、成年した漱石が金を無心された体験をモチーフにしています)。
養父の仕事の関係で、住まいは浅草、赤坂、新宿、浅草と転々としていましたが、7才のとき、学制によって開校したばかりの戸田学校(現・浅草精華小学校の前身)に、普通より1年遅れて入学しました。成績優秀で半年で二級ずつ進級したと言われています。
9才のとき、養父母が離婚したため、新宿喜久井町の実家に戻り、市谷柳町の市谷小学校(現・新宿区立愛日小学校の前身)に転校。11才の4月に上等小学校八級を修了した後、理由は不明ですが、錦華小学校に移ります。そして半年後の10月に尋常科二級後期を卒業しました。

と、なんともわかりにくい小学校遍歴ですが、当時の小学校は上等、下等に別れ、それぞれ一級から八級まであり、毎級半年で修了することになっていました。漱石は通常8年かかるところを成績優秀ゆえに飛び級を重ね、わずか5年ですませてしまったようです。
喜久井町(早稲田のあたり)から錦華小学校のある猿楽町までは、けっこうな距離があったと思われますが、当時の小学生はこのくらい、みな通っていたのでしょうか?
ちなみに「錦華」という名前は、小学校わきの坂道「錦華坂」、そして小学校・幼稚園と隣接する「錦華公園」に今も残っています。

錦華坂 錦華坂

錦華公園 錦華公園

参考文献
新潮文庫 : 「こころ」 「道草」


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