Medical Tribuneに江石先生のエッセイが掲載されました。


Medical Tribune  2012年8月2日発行:p44より転載

知識のブラックボックスへの挑戦
東京医科歯科大学 人体病理学分野教授・附属病院病理部長 江石義信

  朝日が差し込む大きな窓辺を背にひとりの中年医師が若い女性とその母親の前に座っている。娘は微笑んでおり母親はその目にいっぱいの涙をうかべている。 『本当にお世話になりました。もう諦めていた娘の難病がこんなに良くなるとは思ってもみませんでした。日本中を探し求めて先生の治療法にめぐりあえたのが 幸運でした。』 わたくしが中学生の頃にみたNHKドキュメンタリー番組のひとこまである。『難病への挑戦』これこそがわたくしが医学への道を選んだ動機 でした。
 ところが医学部を卒業する頃になっても、『難病っていったい何だろう』と迷っていました。これから先なにを難病として追求していけばいいのか途方にくれ ていたわたくしが選んだ道は病理学でした。まずは病理学の基礎を身につけて病気の仕組みを勉強し将来の漠然とした難病解明への夢につなげたいと思ったから です。病理学専攻で大学院を卒業した後オーストラリア国立大学のPhD課程に進学しました。留学先では、末梢性セルフトレランスの獲得機転を抗原特異的サ プレッサー細胞の存在を想定して研究しました。日本を離れてすべての時間を研究に費やせる恵まれた環境のなかで学んだことは、『深淵な生命に内在する真理 は人間の努力や都合には影響されない想定外のものが多い』という体験でした。
 留学から帰国したあと病理学者としてわたくしがやり始めた研究は、皆がこぞって研究に取り組むような時代の先端をゆく研究テーマではなく、これとは逆に 人間の都合から研究されないで放置されているような問題点を、病理医や教員として日常業務をこなしつつじっくりと時間をかけて取り組むというものでした。 難病のなかには、癌研究に代表されるように皆が挑戦してもなかなか解明できないものもありますが、難病は生まれ持って難病という名前をもっている訳ではあ りません。難病の多くは、人類がこれまで蓄積してきた医学的理論や常識の想定外にあるが故に、人間の都合によって難病という名前を課せられているだけでは ないかと考えるようになりました。
学生はよく『人の役に立つ医者になりたい』とか『自分にしかやれない研究をしたい』と言います。『自分がこの時代に生まれてきたことになんらかの必然性を 感じたい』という発想は前向きに生きる若い人々が抱く『人生の生きがい論』として昔も今も変わりません。受験生時代の競争を勝ち抜いてきた学生であって も、現代のような競争原理が取り入れられた研究環境にはいまひとつ抵抗があるようです。外国の研究グループに3ヶ月先んじて研究成果を発表することで特許 も取れるし名声も地位も得られるという競争研究が拠り所とする考え方だけでは『自分の存在の必然性』は感じ取れません。自分でなければこの事実は明らかに はならなかったというような『自分なりの生きがい』を求める学生が、研究志向の学生達のなかに増えているように感じています。
 授業や実習で出会う学生の多くは臨床医としてこれから活躍する人材です。彼らには常日頃から、『事件は会議室(研究室)ではなく現場(ベッドサイド)で 起こっている』とする織田裕二(踊る大走査線)の言葉を伝えています。常識や既成概念にとらわれることなく、臨床現場で矛盾や疑問を感じることがあれば、 これを研究室レベルで追求できる能力と環境を有する研究志向型の臨床医に育ってほしいと思うからです。
 そんな彼らにわたくしはよく『ジキル博士』の話をします。病院勤務から帰宅したジキル博士が、賄い担当の婆やに『お食事にしますか?それとも研究が先で しょうか?』と尋ねられ、地下室にある研究室に物思いに耽りながら降りていきます。皆があこがれる研究者の姿とはこんな古きよき時代のイギリスにあるのか もしれません。現代のように研究が職業となり、研究成果の如何によっては職を追われかねないような状況のもとで、一定の限られた時間と予算で期待される成 果をあげねばならないという研究環境にあっては、深淵なる生命の真理に迫ることはなかなか容易なことではありません。
 なるべく短期間に限られた研究資金のなかでインパクトのある研究成果をあげるという人間の都合が生み出す研究のやり方が、時間経過のなかにあってはそれ なりに学問体系の発展に寄与してきたことは間違いありません。しかしながら、人間の都合や歴史を背景に発展してきた学問体系のなかには、いまだ問題を抱え ながらも既に体系化され常識としてまかり通っているものもあれば、これまでの学問体系が包括しきれていない未知なる真実も多数存在します。人間が作り出し たこれらの『知識のブラックボックス』をひとつひとつ丁寧に埋め尽くしていくことで、整合性のある疾病理論を導き出すことが可能となるでしょうし、いまだ 原因不明とされる『難病のトリック』もみえてくるかもしれません。




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