「クローン人間作製」についてのコメント
はじめに
(これは、読んでいただく方への要望です)
私たちがこのページを書いたのは、おそらく近いうちに報道されるであろう「クローン人間が生まれた」ことに関するコメントではありません。このホームページを読んで下さっている一般の方々はもちろん、報道に関わる人達にも御理解いただきたい点は、この手の質問は科学者がコメントする対象ではないと言うことです。すなわち、事実の確認のしようがない事象に対して、私たち科学者はコメントすることが出来ないと言うことです。
おそらく「クローン人間が生まれた」ことは新聞・テレビで大々的に報道されることと思いますが、報道する側もこれが「真実」であるかどうかが明らかではない状況で、発表者側のコメントだけでも十分にニュースとして取り上げられてしまうかも知れません。またクローン動物の研究者が危険性を指摘し、多くの国で体細胞クローン技術をヒト個体の作製に応用することを禁止しようとしている現在、発表者側が会見に臨んで、第3者の科学者(科学機関)によって正確にそれを証明できるデーターを同時に公開出来るとも思えません(正式には第3者と言えない立場の科学者によるデーターは公表されるかもしれませんが・・・)。
最先端の科学記事がニュースとして報道される際に、何人かその専門分野の科学者のコメントが一緒に掲載されます。それは科学者による審査をうけた雑誌に掲載され「かなりの確率で真実である」と考えられる内容に対して行っているものであります。体細胞クローン技術は最先端の科学であることは間違いはないのですが、「クローン人間誕生」のニュースが、この技術をヒトに応用した成果を報告する科学発表ではなく、「嘘か真実か!?」という週刊誌向けのゴシップ記事的なものであったとしたら、それに科学的なコメントを寄せることは適当ではないと考えます。「もしも本当であったら・・・である」というコメントは、実際には何も意味しないばかりでなく、かえって一般の方を惑わしてしまう危険もあります。
人間は認識において多くを過つ生き物であり、かつ意識的に嘘をつく生き物でもあります。科学は、人間のおかしやすい、このような認識上の誤りを除いた上に成り立つ命題を明らかにする学問であります。
「現在の体細胞クローン技術はヒトに応用できるレベルにあるか」
私達、この分野の研究に携わる研究者が出せる現時点でのコメントは、「現在の体細胞クローン技術はヒトに応用できるレベルにあるかどうか」という問題に対してであります。そして、「現在の体細胞クローン技術はまだ未熟であり、クローン人間作製に応用する段階にはない」というのが私達の見解であります。特に、以下に述べるように動物での実験から多くの異常が起きる可能性が考えられる技術を人間に応用することは間違っています。産まれてくる子どもに重篤な障害をもたらすリスクを正当化することは誰にも許されません。それゆえ私たちはヒトのクローニングには反対です。
以下に、これまで報告のあった体細胞クローンの解析から得られている実験結果を箇条書きにしました。しかし、「ヒトのことはヒトを調べなければ解らない。」ということはとても重要なことですので覚えていて下さい。ヒトクローン(科学的にはクローン人間をこう呼ばせてもらいます)がどのような発生を示し、成長するのかを他の動物実験結果から、完全に予想することは出来ません。私たちが述べているのは、他の哺乳類の種におけるクローン動物の結果から、ヒトクローンを作製した場合、何が起こりうるかという推測を述べています。ヒトクローンを作製したら、他の動物よりも異常が少ない可能性もありますが、さらに異常の頻度が高い可能性もあります。万一ヒトクローンが二、三例生まれたからといって解ることではありません。
一方で体細胞クローンの技術は、再生医療と呼ばれる新しい技術の一つの重要な基盤となる可能性が期待されています。もちろんこのような目的のために体細胞クローン技術がヒトに応用される場合があったとしても、それは動物実験で安全性が充分確認されてから後のことであって、動物実験で多くの異常が出ている段階でヒトに応用するということは、通常の医療行為ではあり得ないことです。その意味でも、動物を使った基礎実験の重要性を認識していただければと思います。
これまでの研究からクローン動物では
- 誕生まで発生出来る個体がまだ少ない(2〜5%)
- 多くの奇形(胎盤の過形成、胎児の過成長その他)が見られる
- 健康に見えても異常が認められる(肥満が認められる場合や寿命が短いなど)
- 多くの遺伝子発現に異常がある
- 遺伝子発現の異常については原因の分かっているもの(ドナー細胞の問題)と分かっていないものがある(クローン技術そのものによる問題)
- 染色体異常なども含め遺伝的な異常の可能性がある
全く(遺伝的に)同一の個体が生じるというのが、クローンの定義であり、一般にもそのように信じられていると思います。しかし、現在の体細胞クローン技術で生み出される「クローン動物は」実際には、遺伝子発現制御に乱れが生じて、正常個体とは同一ではない生物になっています。細胞のドナーとも違うし、クローン個体同士でも違う生き物が生まれていると考えざるを得ません。
おそらく、多くの異常を持った個体は発生の途中で死亡し、生きて生まれることができる程度に正常な個体のみが生まれているのだと考えられます。もちろん、この中には完全に寿命を全うする個体も含まれますが、短寿命のもの肥満などの様相を示すもの等、体細胞クローン動物に特有の表現型も現れます。すなわち、動物での実験から現在の体細胞クローン技術は体外受精などの他の生殖補助医療に用いられている技術に比べてはるかに多くの問題が見られてるのです。ヒトのような高次の脳機能(精神作用)を持つ生物の体細胞クローンが、仮に一見正常に生まれたとしても、これらの遺伝子発現にわずかな異常が起きたばあいの障害の多様性や頻度等のリスクは、現在全く推測できていません。
さいごに
本当にクローン人間が誕生したかどうかは、もちろん科学的にも重要な問題ではありますが、本当に科学的な意味でこの問題に結論がでることは、個人のプライバシー保護の問題等から、少なくとも当分の間はないであろうと考えています。また、ここでは倫理的な問題(プライバシーや個人の尊厳)などには立ち入らないことにしました。この問題もまた重要であることはいうまでもありません。
今回の報道にあたり、一般の方が「ヒトクローンの誕生」を科学報道と勘違いされないことを望みます。
科学技術振興事業団 戦略的基礎研究推進事業
ゲノムの構造と機能 「哺乳類特異的ゲノム機能」チーム
東京工業大学遺伝子実験施設
石野史敏
幸田 尚
理化学研究所バイオリソースセンター
小倉淳郎