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教養部について

教養部の沿革

東京医科歯科大学は、国立大学では唯一教養部をもつ大学です。

 大学における教養部はどのような歴史を持っているのでしょうか。現在、日本の大学の教養部が置かれている位置を概観した後、本学の歴史の中での私たちの教養部の沿革を記しておきます。


1:大学教養部の位置づけ

大学設置基準大綱化と教養部
 平成3年7月1日の大学設置基準の大綱化によって、多くの大学は、教養部の改組、分属へと動きました。
 それ以前、大学のカリキュラムは、昭和31年に制定された大学設置基準によって細かく規定されていました。すなわち、一般教育科目(人文・社会・自然)、外国語科目(2科目)、保健体育科目(講義・実技)、専門科目という区分が設けられ、詳細に必要単位が規定されていたのです。その後大学の多元化への要請が高まる中でいくつかの手直しが行われましたが、平成3年、抜本的に大学設置基準が改正されました。この大綱化で、詳細な授業区分や区分ごとの履修義務が撤廃され、各大学はその教育理念、目的に従って自由に教育課程を編成することができるようになったのです。
 この改正は制度上の教養部廃止を求めたものではありませんでした。しかし、専門教育と一般教育の科目区分が廃止されたことは、担当教官の区分固定を廃止するものでしたし、また、一方で体系的な教育課程の編成が要請されたことは、専門課程と切り離された形で教養課程が存続することを不自然なものとしたように考えられたのです。その結果、多くの大学で教養部の改組、分属がおこりました。現在、全国国立大学で教養部の名を残しているのは、教養学部と名のつく東京大学や埼玉大学を除けば、本学教養部ただひとつです。

教養教育責任組織の重要性
 新設置基準は教養課程の年限や履修義務の規定を廃止するものでしたが、その19条第2項に「教育課程の編成に当たっては、大学は、学部等の専攻に関わる専門の学芸を体系的に教授するとともに、幅広く深い教養及び総合的な判断力を培い、豊かな人間性を涵養するよう適切に配慮しなければならない」とうたっており、決して教養廃止を説いたわけではありません。むしろ、多くの大学は、それ以前から、専門学部との格差解消のため、教養部の教養学部への昇格を課題としており、当時、教養部をそのまま教養学部化することは無理な状況であったため、これを機に教養部の改組に動いたという内部事情もあったのです。そして、教養課程の教育責任が曖昧になった弊害はその後、様々な形で浮き彫りになってきています。
 本学は教育理念にも、 「幅広い教養と豊かな感性を備えた人間性の養成」 「自己問題提起、自己問題解決型の創造的人間の養成」 「国際性豊かな医療人の養成」 を掲げています。高校卒業後、高度な専門へとはいる中間の時期である大学初年度に、教養部という責任を持った組織が、体系的に皆さんの教育の責任を担うのはきわめて重要なことだとわれわれは考えています。


2:東京医科歯科大学教養部の歴史

 他大学と同じように、本学教養部の成立も、旧制大学から新制大学へという戦後の大学制度変遷の歴史をそのまま反映しています。戦後、新制大学ができたとき、教養部の前身である予科も誕生したのです。
 旧制大学は、戦後の学制改革により、不本意ながら旧制高校や専門学校をかかえ込みそれを教養部としました。それに対し、東京医科歯科大学における予科の発足は、本学を大学に昇格させるための出発点であり、そのために関係者の並々ならぬ努力がありました。予科は、出発点で、本学の大学昇格のための必要不可欠な組織と認識されたのです。規模の小さな組織とはいえ、教養部は本学関係者の努力によって望まれて生まれた組織でした。

本学の沿革

1)高等歯科医学校としての誕生
 東京医科歯科大学は、文部省歯科医師開業試験附属病院を母体として昭和3年10月12日に設立された東京高等歯科医学校をその前身とします。東京高等歯科医学校の修業年限は本科4年、研究科2年で、教官は校長1、教授4、助教授1のみでした。初代校長には島峰徹先生が就任され、翌4年4月に一回生100名の入学式が行われ、一ツ橋の東京商科大学(現・一橋大学)の校舎の一部を改築した仮教室で授業が開始されました。
 その後、昭和5年12月には、現在の湯島キャンパスにあったお茶の水の東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)寄宿舎跡を一部改築して、本校及び附属病院が移転しました。また、昭和9年4月には旧本館(その後の2号館)の基礎工事が始まり、翌10年7月に竣工して8月に移転が行われました。こうして、東京高等歯科医学校は、わが国唯一の官立歯科医学教育機関として、日本の歯科教育・研究および診療における中心的役割を担うことになります。

2)医学部の併設
 文部省直轄諸学校管理の一部改正によって、昭和19年4月からは医学科(定員80名)が増設され、東京医学歯学専門学校と校名が変更されました。歯学科はそれまでどおりの定員80名のままでした。教官の定員は教授31、助教授21、助手21と大幅に増員しました。残念ながら、昭和20年3月10日と4月13日の2度にわたる空襲で、木造建築の建物は大部分が焼失し、旧本館(その後の2号館)のみとなってしまいました。

3)新制大学へ
 戦後の昭和21 年8 月に旧制東京医科歯科大学に昇格し、昭和24 年国立学校設置法の公布を受けて、昭和26 年4 月に新制東京医科歯科大学となります。これと同時に歯科材料研究所、附属看護学校、歯科衛生士学校などの付属施設が整備されました。
  昭和48 年には難治疾患研究所、平成元年には医学部保健衛生学科(看護学専攻,検査技術学専攻)を加え、医歯系総合大学としての陣容が整えられました。平成11 年度には医学と歯学の高度な有機的連携を目指すわが国唯一の大学院医歯学総合研究科が新設され、大学院重点化の拠点校としての責任を担うことになり、平成13 年度には大学院大学への移行が完成しました。また、平成16年度には歯科衛生士学校が歯学部口腔保健学科(平成23年度からは歯学部口腔保健学科口腔保健衛生学専攻)に昇格、平成23年度には歯科技工士学校も歯学部口腔保健学科口腔保健工学専攻に昇格し、歯学の分野においても医歯学系総合大学としての陣容をますます充実させています。

教養部の沿革

1)予科の設置
 本学教養部は昭和21年8月21日、本学が大学に昇格したとき、茨城県稲敷郡安中村に開校された東京医科歯科大学予科を前身としています。
 東京高等歯科医学校時代から、大学への昇格は本学の夢でしたが、戦前は諸般の事情でなかなか実現にいたらず、昭和19年4月、医学科を併設して東京医学歯学専門学校となるにとどまっています。戦後、GHQの後押しもあり、この昇格は突如実現の公算が大きくなりましたが、当時はまだ新制大学の制度が未定であったことから、最初は旧制大学令による大学を建設することを目指すこととし、そのために、まず予科を設置しよういう動きが起こることになったのです」。初代学長であった長尾優氏はその著書で次のように述べておられます。

 
 昇格するには、まず予科を設置すべし、と決意したのは幾度も申し述べたとおりである。しかしその頃医科大学への入学者は、国立の場合北大(ここの予科はたぶん地理的の関係で設けられていたと思う)を除いて他はみな旧制高等学校等を経た者であるが、元来旧制高校理科生中に、歯学を志望する者幾人あるか? 仮りに歯科大学を作ってもいきなり初回から入学者が定員数を満たすか否か不安なきにしもあらずだ。これが予科を設ける第一の理由である。次に時、終戦早々で教育制度大変革を来しつつある際、歯科の教育制度は未だその全貌定まらないときである。従って予科を設けて置けば、歯科大学のあり様が仮りに米国式になっても、現に予科を持てる医科大学と同様にそのまま予科をかかえ込むこともできる。これが第二の理由である。
 今一つは当時すでに司令部のリレジー中佐は、しばしば私に向って医学歯学専門学校の医学科存続につき異論を抱いている旨申し出ていた。これはすでに私の回顧中にやや詳細にそれに対する善後策や、私の処置について述べてあるので、読者諸君もご記憶あらんと思うが、当時は未だその結末がついていない時であった。これもまた予科を先行し実績を作っておくべきだと考えた理由の一つであった。
 

 昭和20年12月末日に予科設置の概算要求が確定し、予算の目途がつきはじめた頃、設置場所としても茨城県稲敷郡安中村が決定されました。ここは東京からかなり離れており、管理運営上の困難が予想されましたが、一方で、全寮制による全人教育の場としての利点もあるように思われたのです。短期間での候補地選びとさまざまな戦後の事情から、必ずしも望み通りの場所とは言えない点もありましたが、それでも予科設置にあたっては、本学の大学昇格を目指した並々ならぬ意気込みがあり、予科教育にも旧制高校的な全人的教養教育の理想が掲げられていたのです。候補地を視察に行かれた長尾氏の回想にはこうあります。

 
 その時私はふと、私がかつてアメリカに留学していた時、フィラデルフィア郊外のある大学を見学し、その環境の良かったこと、全寮主義を採用しつつ、24時間の意義ある教育、特にいわゆる教養学方面に力を入れて、人作りに重点を置いていたある大学を思い出し、もしあのような意味で、新設予科をもてるならば、さしずめここに設置すれば、戦後退廃せる社会から隔離せるこの土地は、全く捨てたものでもあるまい、いや予科教育はかかるところにおくべきだ、との考えが油然と頭に浮かんできたのである。
 

 昭和21年8月27日に東京医科歯科大学設立が公布されました。既に7月に入学試験を行っており、10月4日から授業が開始されます。医科20名、歯科60名。予科の生活は全寮制で教官もいっしょに寝泊まりして生活を共にするというものであり、交通上の制約からやむを得ない事情があったとはいえ、理想的な人間教育という使命に燃えた出発でした。

2)予科の廃止と千葉大学への移管
 昭和23年頃から新制大学設置が本格化し、それと見合った形で、本学でも昭和24年の入試を行わず、予科の自然消滅の方針を打ち出しました。昭和25年には予科は3年生を伴ったまま新制千葉大学に移管され、千葉大学東京医科歯科大学予科と呼ばれることになったのです。教官も昭和25年は兼任の形をとっています。新制大学では医、歯の大学に進学できるのは、いずれかの新制大学の進学課程を終えた者とされました。この進学課程は文理学部、教育学部、学芸部、あるいはきわめて少数の教養部等で教えられていましたが、本学のような規模の小さな単科大学が独自にこうした学部を持つことは難しかったため、千葉大学への移管となったのです。千葉大学では本学予科を核として文理学部が開設され、本学の医学部40名、歯学部60名の教育をも受け持つことになりました。昭和26年3月で予科は廃止されます。
 当時、「進学課程」を終えて医学部、歯学部の専門課程に進むには、その時点でもう一度入試を受けねばなりませんでした。しかし、公私立の医、歯大学でこの入試を行わず、進学課程と専門課程を直結させる大学が暗々裡に増加するようになると、そのことが医歯系大学進学に混乱を生じさせたこともあり、識者の間にも入試を間にはさまない方がよいのではないかという議論が起こるようになります。昭和30年1月に医歯系大学は6年制となり、直接専門課程に進めることになりました。そして、それに伴い、同年、千葉大学文理学部内に本学の進学課程が設置されたのです。

3)東京医科歯科大学国府台分校から東京医科歯科大学教養部へ
 昭和33年東京医科歯科大学国府台分校の創設によって、この進学過程は千葉大学文理学部から分離します。ここに再び、本学自身の手で進学課程の教育が行われるようになったのです。この年の入学試験は既に千葉大学で実施されており、4月に始まった授業は初めお茶の水地区の専門課程の建物を間借りして行われていましたが、10月には国府台地区に教育・研究施設が一応完成、分校は正式に移転しました。昭和34年には2学年200人がそろったことから教官も大幅に増加します。その後昭和36年には歯学部定員が80名となり、医学部も昭和38年60名、昭和41年80名と増加したことから施設面での増強も図られました。
 昭和40年には「国立学校設置法施行規則」の一部改正に伴い「国府台分校」は「東京医科歯科大学教養部」と改められ、本学内の一部局に昇格しました。

参考文献
 ・長尾優、『一筋の歯学への道普請』、昭和41年5月、医歯薬出版株式会社
 ・『東京医科歯科大学創立50年記念誌』、昭和53年9月、東京医科歯科大学