湯浅研究室での思い出

「湯浅研究室での日々」 大藤道衛

「湯浅研の思い出ー湯浅先生退官に当たって」 市村幸一

「湯浅先生」 本間美和子

「湯浅研と私」 三宅 智

「湯浅先生との21年間」 秋山好光

「湯浅研究室の思い出」 田中宏幸

「思い出」 若菜公雄

「湯浅研究室での日々」(湯浅研究室20周年記念誌から、著者の許可を得て転載)

元専攻生 大藤道衛

湯浅先生、教授ご就任20周年おめでとうございます。先生に直接ご指導いただきました日々は、私にとってかけがえのない時間でした。思えば1988年、開講と同時に“Molecular cloning 1st ed.”片手に教室の門をたたいたときは、湯浅教授、本橋先生、第一内科の神山さん、技官の長崎さん、そして私の5名でのスタートでした。その後、すぐに脳外科から市村さん、新井さんが来られ、翌年、本間(加藤)先生が着任されてにぎやかになってきました。湯浅先生は「教育は得意ではない」とおっしゃっていましたが、とんでもありません。クローニング、シークエンシング、無菌操作・細胞培養・トランスフェクションと実験技術のノウハウを直接ご指導いただきました。「コントロールはどれ!」、「各操作の意味を考えながら実験しましょう」等々から、実験番号や検体番号による管理など実験に対する考え方を徹底的に教育していただきました。当時としては新しいPCR法をはじめて行った時、談話室のソファーで仮眠をとり朝方電気泳動にてバンドを観察し、すぐに先生と相談した日は懐かしい思い出です。先生は、私の興味を尊重してくださり、研究テーマとして癌関連遺伝子(ras, p53, TGFβ-RII)解析やMSI解析手法の確立・応用など方法論的なものをくださいました。学会発表にあたっては、「まとめは3~4つに絞りなさい。」、「語尾をハッキリ」など先生の助言は、いまでも肝に銘じています。英文論文作成のときは、外部の所属であった私のために、平日の夜や土曜日の午後などに時間を割いてくださり、「この研究の売りはなに?」と質問されながら、論旨の進め方からひとつひとつの単語のニュアンスまで、アクセプトされる英語論文の書き方を親切にそして”厳しく”ご指導くださいました。先生の親身のご指導により1995年に学位をいただくことができました。現在、私は生命科学教育に携わっておりますが、在籍中に学ばせていただいた湯浅教授の数々の教えは、自分のライフワークの支えとなっております。教室旅行もまた実に楽しいひと時でした。草津温泉から横手山、富士を見ながら河口湖、伊豆高原での卓球大会など、トランプや”UNO”に興じて童心に帰る一幕もありました。また北海道・癌学会の帰りに温泉で一泊、班会議の夜など、ほんとうに楽しい思い出です。研究に厳しく、人との交流を大切にされる湯浅教授。これからも湯浅先生のご研究ならびに教室が更に発展されることを心からお祈り申し上げます。

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「湯浅研の思い出―湯浅先生退官に当たって」

市村幸一

私が衛生学教室(当時)にお世話になるようになったのは1988年の10月、湯浅先生が赴任されてまもなくのことでした。当時東京医科歯科大学の脳神経外科に在籍していた私は、富士吉田市立病院から大学に戻ってきたばかりで将来の方向性を模索しているころでした。ちょうどそのとき時期をほぼ同じくして脳神経外科に赴任された平川教授から脳腫瘍のがん遺伝子の研究を勧められました。平川先生は新しい研究技術に大変興味を持っておられ、新進気鋭だった湯浅先生の下で当時最先端の分子生物学を学ばせようというお考えだったと思います。渡りに船と思った私は、喉まで出かけた「がん遺伝子って何ですか?」という質問を飲み込んで二つ返事で湯浅先生のお世話になることにいたしました。教室に出入りするようになってからはスウェーデンに留学するまでの3年間の間に分子生物学の基本を教えていただき、そのときの経験は今でも役に立っています。最近では何でもキットを使うようになっていますが、すべて自前でやった時代に基本を学べたのは幸運なことだったと思います。湯浅先生を始め大藤さん、安藤さんなど当時の教室の皆様とは仕事の枠を超えて研究検討会後の飲み会や教室旅行など楽しく過ごさせていただきました。教室を離れた後も長崎さん、秋山さんには大変お世話になっております。その後私はスウェーデンのカロリンスカ研究所で学位をとった後イギリスのケンブリッジ大学病理学部へ移り、3年前に帰国し国立がん研究センターに赴任して現在に至っていますが、私の研究者としての道のりは湯浅研究室に始まり、研究室とともに今年で26年目を迎えることになります。お世話になった湯浅先生がこの度退官されることは大変感慨深いことであり、時の流れを感じずにはいられません。この場をお借りして、湯浅先生と研究室の皆様に改めて心より感謝の言葉をささげたいと思います。末筆ながら、教室のますますのご発展をお祈りいたします。

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「湯浅先生」

福島県立医科大学 本間美和子

「Ras遺伝子の湯浅先生」、という圧倒的な知名度あるご業績で語られる先生を、もしも一言で表現することをお許しいただければ、まことに真摯な研究者であると思う。

先生が30代で医科歯科大学教授に着任された翌年に、私は学位と学振を修了して助手として採用頂いた。毎土曜日午後の教員と院生によるセミナーは時間厳守で開始し、教育的な配慮にあふれたディスカッションが毎回行われていた。いろいろなテーマが走っている研究室の現況を、先生が十分に把握しようという意気込みがいつも感じられた。そして、教授室に呼び出されてディスカッションするときは、いつも個人ファイル(克明な記録帳と思われる)をすっと用意されて、前回の続きからスムースに話が始まったことを思い出す。科学的な真実を記述する論文投稿に際しては、再現性の確認はもちろんのこと、別のアプローチによる検証の必要性、Manuscript論旨のポイント、序論の中身、参考文献の選別まで、細かい点も目配りされており、いつも背筋の伸びる思いがした。

私はその後、ワシントン大学等へ短期留学の機会を得、夫の都合で福島医大へ異動したが、湯浅先生の許でAPCタンパク機能について取組んだテーマ が現在のkinase signalingの研究へと繋がっている。そして、此処で学んだような実直で誠実な作業に心を込めることがいかに大切であるか、教育の現場でも痛感し続けている。自分の研究教育職のスタート地点である医科歯科大が、今は美しいタワーに衣替えをしているが、その雄姿を眺めるたびに真摯という言葉を思い起こし、あらためて襟を正す気分になるのは、まさに湯浅研あればこそ、と思う。

退職記念祝賀会も、湯浅先生の細やかなご高配が感じられる素晴らしい会であり、懐かしいお写真も多々拝見させていただいたことを感謝申し上げます。今後の湯浅先生はじめ在籍された教室員皆様の益々のご多幸を、御礼と共に、心より祈念いたします。

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「湯浅研と私」(湯浅研究室20周年記念誌から、著者の許可を得て転載)

友愛記念病院 緩和ケア・化学療法科 三宅 智

現在、私は茨城県古河市にある友愛記念病院に緩和ケアと化学療法を担当する腫瘍内科医として勤務していますが、この病院は、以前私が医科歯科の第1外科の医員だった時にも関連病院へのローテーターとして勤務していました。自分の経歴の中で、もう1箇所、2回勤務をした場所があります。それが湯浅研です。

湯浅研には第1外科の研究生としてお世話になった期間と、基礎研究に転出し埼玉県立がんセンター研究所に勤務した後に、スタッフとしてお世話になった期間がありますが、そのすべてを語るには膨大な紙面が必要になりますので、ここでは、後半、主に2研で過ごした日々についてお書きします。

私が再び湯浅研にお世話になることになったのは、米国留学から帰国後に一時臨床に戻った後に、基礎研究者として埼玉県立がんセンター研究所に勤務した後のことです。当時私は分子疫学研究に携わっていましたが、当時のボスが広島に転勤になることになり、また、埼玉県立がんセンター研究所が県の財政悪化で閉鎖されるという噂が現実味を帯びてきたので、湯浅先生に相談したところ、快く大学でのポジションを準備していただきました。その後、当時助教授だった丸山先生が退職されたので、講師に昇格させていただきました。さらに、当時研究していた新規分子のノックアウトマウス作成のために丸2ヶ月、九州大学への国内留学を認めていただきました。そのことがきっかけで、最終的には東北大学(当時の九州大学の助教授が教授で転任した関係で誘われた)に転出しました。考えてみると、勝手し放題だった2年あまりの期間でした。

その後、研究者から臨床医に戻って、現在の勤務についています。腫瘍外科医→がんの基礎研究者→腫瘍内科医と転身してきたわけですが、自分の中では、湯浅研を中心とする基礎研究者としての時期が、がん診療に携わる医師としてのアイデンティティになっていると感じています。この場をお借りして、常に臨床医の立場を理解しながら医学研究を行い、臨床医をサポートし続けている湯浅先生に感謝いたします。そして、湯浅研20周年記念を心からお祝いさせていただきます。

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「湯浅先生との21年間」

秋山好光

湯浅先生、ご退任おめでとうございます。湯浅先生のがん研究・教育におかれる多大なるご功績に感銘致しますとともに、心よりお祝い申し上げます。私は1993年に衛生学教室に大学院生として入り、湯浅先生とは20年以上の師弟関係にあります。90年代は分子生物学が飛躍的に発展し、様々な分析機器の登場とともにPCRが大きな成果を上げる時代でした。私は筑波大学修士課程でがん組織の顕微鏡観察ばかりの日々を送ってきたため、衛生学講座に入学した当初は遺伝子のことがさっぱりわからない状態でした。研究スタート時は、vectorやtransformationなどの横文字用語の多さに戸惑いましたが、湯浅先生からほぼ毎日の直接指導を頂き、次第に遺伝子研究に馴れていくことができました。また大学院2年生の時に衛生学助手に抜てきされたことは私の人生の大きな転機となりました。今では、湯浅教授のもとで学んだ知識と経験を大学院生や大学生にも伝える立場となり、改めて人に物を教える大変さ・難しさを痛感しております。がん研究では、湯浅先生のご指導のもと、多くの成果をあげることができました。中でもNature Genetics、Gastroenterology、Cancer Researchなどの一流雑誌に発表できたことは私にとりまして本当に名誉なことです。

湯浅先生には長きに渡り、ご指導頂き、本当に感謝しております。私たち門下生はその教えを守り、これからも日々研究に精進したいと思っております。湯浅先生の益々のご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げます。ありがとうございました。

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「湯浅研究室の思い出」

田中宏幸

湯浅先生、ご退職おめでとうございます。私が湯浅研究室を訪れるようになったのは、東京医科歯科大学入学後の二年間の教養課程を終え、学部の授業で湯浅先生の癌遺伝子の講義を聴き、たいへん感銘を覚えたためでした。癌は得体の知れないものという先入観を持っていた私にとって、単純明快に発癌の論理を説明する授業は衝撃的でした。興味があったら研究室に来て下さいという言葉に甘え、学部生ではありましたが、すぐに研究室を訪ねました。湯浅先生のお話を聞いて、発癌の分子機構が、当時最もエキサイティングな研究領域の一つであることが理解できました。

そのような研究に携わりたいとの思いから、湯浅研究室への参加を許可していただきました。放課後、夏休み、冬休みなどを利用して、実験ではサザン解析、ノーザン解析、ファージを使用した遺伝子ライブラリーの作製とクローニング、細胞培養、コロニーフォーカスアッセイなど、多くの手技を直接に基礎からご指導いただきました。論文抄読会、研究検討会にも可能な限り参加し、客観的な論文の読み方、研究を進めて一つの仕事としてまとめる方法論を学びました。夢中になって過ごした、このころの経験が、私の人生の基礎になっています。考え方や振る舞いなど、知らず知らずのうちに、湯浅先生から強く影響を受けていることが、今になるとよくわかります。

大学卒業後は、新しい環境に挑戦したいと考え、東京大学大学院の博士課程に進みました。学位取得後、再び助手として湯浅研究室に加わりました。そこでは、自分自身の研究に加え、学部生、大学院生への指導する立場ともとなりました。多様なバックグラウンドを持つ個性的な先生方や大学院生とともに実験やディスカッションできたことは、たいへん楽しいことでした。教授室で、湯浅先生と大学院生、私の三人の組み合わせで何度もディスカッションさせていただいたのをよく覚えています。実験結果が想定通りいかず、困っているようなときでも、適切な方針を示していただき、研究の進め方を学びました。そのような方針決定のための考え方は、その後のイギリスへの留学、現在の臨床医としての仕事にたいへん役立っています。

現在でも強く印象に残っているのは、湯浅先生の研究に対する真摯な態度と、内に秘めた高い志です。ときどき、将来の大きな目標を語っていただけることがありました。日々の研究に邁進し、有言実行でたいへん高い業績を上げられたことに敬意を表するとともに、そのような湯浅先生の下で直接にご指導いただけたことをありがたく思うとともに、たいへん感謝しています。

最後になりますが、湯浅先生、湯浅研究室関係者の皆様の益々のご発展をお祈り申し上げます。

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「思い出」

都立駒込病院 婦人科 若菜公雄(湯浅研究室20周年記念誌から、著者の許可を得て転載)

私は2003年1月から2006年3月まで、婦人科の大学院での研究をする際にお世話になりました。婦人科腫瘍の研究をしたかったところ、婦人科の久保田先生より三宅智先生を紹介していただき、湯浅教授に面倒を見てもらえることとなりました。教授の期待に沿えるような研究結果は出せませんでしたが、私にとって基礎研究にいそしんだ3年間は非常に有意義なものであったと確信しております。

最初は三宅先生の下につき、実験手法のイロハを教わりました。2研で、卒研生の笹島さんと3人で仲良く過ごしておりました。教授の目を盗んで明るいうちから飲みにいったこともあります。お酒が入るとすぐに酔っ払い、酔っ払うとすぐにどこかに消えてしまう三宅先生ですが、翌日の朝はそれでも一番に研究室に来ている姿は大変参考になりました。しかし、本格的な研究が始まる前に三宅先生が急遽東北大学に移られてしまい、しばらく路頭に迷うこととなりました。しかし、そんな私を見かねて、秋山先生が引き続き面倒を見てくださり、最後まで大変お世話になりました。秋山先生とは、いつも喫煙所でディスカッションをすることが多かった記憶があります。私の子供が大好きだった、機関車トーマスのCDやビデオもたくさん貸していただき、有難かったです。教授とは話をするのが苦手で、いつも逃げ回っておりました。私の勉強不足を常に見透かされているような気がしてなりません。ディスカッションのたびに緊張して、最後はいつもしどろもどろになっていました。しかし、常に発破をかけていただき、予定通りに卒業までたどり着けたのは大変感謝しております。

現在は都立駒込病院で臨床に励んでおります。大学院時代の基礎研究が直接関連するわけではありませんが、物事の考え方など非常に役に立っております。

最後になりますが、分子腫瘍医学教室のこれからのますますのご発展を心よりお祈り申し上げます。

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