“為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬはひとの為さぬなりけり”(上杉鷹山)
私が米国に渡ったのは、42年前1965年東京オリンピックの次の年のことだった。1ドルが360円、外貨持ち出し200ドルの時代であり、17日間かけて船で太平洋を渡った。咸臨丸で太平洋を渡った勝海舟やヨットの堀江青年のことを思い出した。未知なるものへの好奇心、チャレンジそして自己発見への旅路であった。1960年代の米国は、1963年に暗殺された故ケネディー大統領後任のジョンソン大統領の下、月に人を送る宇宙計画、心臓移植・人工心臓計画、ヴィエトナム戦争などが国民の関心の中心であった。若者の間では、エルビスプレスリーやビートルズなどが注目を集め、ヴィエトナム戦争に反対するデモや平和運動が頻繁に起こり、1969年に50万人もの若者が集ったウッドストックのロック音楽祭は歴史的なイベントであった。この波は、日本にも押し寄せ、東大紛争や三島由紀夫事件などをも引き起こした。当時は、第二次世界大戦の引き金ともなった真珠湾奇襲攻撃に対する記憶も浅く、“ジャップ”とか、“Remember Pearl Harbor”は頻繁に耳にする言葉であった。その反面、日常生活に浸透したキリスト教の教えから隣人愛、純粋な善意には底知れないものを感じさせられた。そんな中で、米国に親戚や知り合いがいたわけでもないが、私は大学、大学院、ポストドク、就職などを含めて約25年間、教育、研究そして人格形成においていろいろな人の恩恵を受けた。
大学院博士課程研究は、オハイオ州クリーブランドにあるCase Western Reserve University (CWRU)で行った。クリーブランドは五大湖の一つであるエリー湖畔の町で、1940年代にロックフェラー財団がスタンダードオイルを始めた街でもあり、当時は米国で一番明るい街として医学、工学、音楽、芸術、スポーツなど学問、文化が発展した。CWRUは道を挟んで存在していた工学系のCase Institute of Technology と医学系のWestern Reserve University が合併して形成された総合大学であり、光の速度計測を行ったマイケルソン・モーリーを初め20名余りのノーベル賞受賞学者を育てている。隣接するクリーブランドクリニック及び周辺の10余りの病院とコンソーシアムを形成して、最先端の医学研究並びに医学教育を展開している。CWRUの医学部・工学部合同で1960年代初期に発足した生体工学科は世界の老舗でもあり、そのような世界最先端の環境において博士研究に取り組めたことは幸運だった。PhD(Doctor of Philosophy)は、新しい知識の提供やメカニズムの解明を通して科学の進歩に貢献する研究に対して与えられる学位であり、その哲学とは何かを教わった。即ち、何故?、そのメカニズムは? とのコンスタントな戦いであり、そして何故自分は学位に値するのかとか世界のエキスパートとしての自覚を養うことを考えさせられた。クリーブランドの冬はカナダから吹き寄せる北風の影響で温度が−20度という酷寒の日々が多く、そんな中で、“俺は一体何をしているのだ”と考えながらも、死に物狂いの毎日であったように思う。しかし、研究の合間、CWRUキャンパスに存在したコンサートホールでクリーブランドオーケストラの演奏を聞く機会があったことは心の癒しとなった。懐かしい日々を思い出すと同時に絶え間ない研究指導をして下さった先生方への感謝の気持ちで一杯である。
博士課程終了後は、隣のクリーブランドクリニックにおいて、ポストドク研究のチャンスに恵まれた。米国NIH主導の下、末期心臓病患者の救済に向けた人工心臓造りの研究が進行していた。そこで、自分が設計・作成した人工心臓で動物(子牛)が生存し、日常生活を送るという光景を目の当たりにし、生命の神秘を感じ取ると同時に、研究の面白さやもの造りを通して人類平和への貢献ができるという夢、情熱が湧いてきた。1970年代後半のことであったが、クレージーな“脈を打たない人工心臓”で子牛を34日間、世界で初めて生かしたのもこのころである。その研究から30年後の現在、当時はクレージーと考えられた脈を打たない人工心臓が心臓病患者の役に立つようになったことを考える時、喜びを感じると同時に研究概念が社会に還元されるためには、長い年月、情熱、オプティミズム、友情、強い信念を要するものだということを実感した。医療機器に関しては、その実用化が遅れている日本も、研究成果がより早く社会に還元され、一人でも多くの患者が恩恵を受けられる体制作り、それを支える人材育成の必要性を強く感じる。
2年前の新年賀詞交換会において、本学鈴木章夫学長が故ケネディー大統領の就任演説の一部であるAsk not what your country can do for you, but ask what you can do for your own countryを引用し、大学が個人に何をしてくれるかを期待するのではなく、個人が大学に何ができるかを考えよ、と言っておられた。渡米中、私も故ケネディー大統領に感化された一人であり、鈴木学長のお考えに賛同する一人でもある。鈴木学長は1950年代後半からクリーブランドのSt. Vincent Charity Hospitalに留学されていた人工弁に関しては、世界的なパイオニアである。面白いことに、故ケネディー大統領は、江戸時代の山形県米沢藩の10代藩主上杉鷹山を尊敬した。上杉鷹山は、江戸時代後期に、米沢藩の再建に成功した政治家で“為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり”は名言であり、真実を語っている。私は1995年に米国から米沢の山形大学に赴任したが、上杉神社に祭られた鷹山公の墓を何回か訪れ、故ケネディー大統領と鷹山公について考えるチャンスを得たのは幸運であると同時に何かの因縁すら感じた。
目標、方向性を失っている日本の政治・経済、教育、研究、産業化の動向を強く感じるが、今こそ将来の夢とヴィジョンを持った人材育成が重要である。大いなる好奇心、チャレンジ、情熱、オプティミズム、友情、信念を貫き、国家社会の発展に貢献できる人材の育成が望まれるところであり、私も一教育者、研究者として、今までの経験を生かし、人材育成、国家社会の発展、人類の平和に寄与し、少しでも恩返しができることを念じている。“為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり”である。