我在り、即ち我味わう ――味覚生理学覚え書――

味覚の生理学について,日頃心に思っていることを,2〜3書いてみようと思う。

1.『荘子』山木篇第二十には「君子の交わりは淡きこと水の如し」とあって,君子の交わりが淡々たること名水の妙味の如くであるとしている。この「淡味」とは科学前のもの,あるいは科学外のものであろうが,ー体どのような「味」をいうのであろうか。味とはいっても,口の中で感じる味でないことは明らかである。また,甘,酸,苦,塩の4基本味の様々な組み合わせでないことも明らかである。どんなものか,何となく判るような気もするが,さてそれでは何と表現したらいいかというと,ちょっと困る。

味覚とは限らず,すべての感覚において,その質(quality)はこのようなファジーで,名状しがたいが,しかもすべての人が互いにわかり合えるのである。不思議なことである。

2.感覚は大脳皮質感覚領野の神経細胞が興奮することによって生ずるのであるが,この感覚神経細胞が興奮するとは,電気生理学的にいうと,神経細胞の細胞膜が脱分極し,イオン(主としてNaやK)が細胞膜を通って細胞に出入りすることにすぎない。神経細胞が興奮したときに,すべての神経細胞にこのような共通した電気現象があるとすれば,例えば,なぜ或る神経細胞が興奮したときに甘味を感じ,別な神経細胞が興奮したときに酸味を感ずるのだろうか。つまり,感覚の質を認識する生理学的機序はどうなっているのだろうか。

私が約40年前に行なった,ヒトにおける実鹸では,閾感覚濃度での4基本味の反応時間は長くとも2秒以内であり,各基本味は1/10秒のオーダーの差で弁別されることがわかった。また,アメリカの研究者は,ネズミに0.3Mの食塩水を与えるとネズミは0.6秒以内に塩味を認知することを行動実験で明らかにした。

これらから味質の認知は刺激を与えてから2秒程度以内で行われるようだ。刺激後5秒間の神経インパルスを記録するのは,却って有害無益の情報が混入するのではなかろうか。とまれ,味刺激を与えたあとのこの僅かな時間の間に,どのようなからくりで味質が認知され,また,弁別されるのであろうか。

3.今から約20年前,中川致之博士(当時,金谷の茶業試験所勤務)が,私の研究室で日本緑茶中の主要呈味成分7種の効果を動物を用いて電気生理学的に研究した。7種の呈味成分とは,L−テアニン,L−アスパラギン酸,L−グルタミン酸,L−アルギニン酸,力フェィン,(−)−エピガロカテキン,(−)−エピガロカテキンガレートであって,これらの物質を緑茶内での天然濃度で,この順序にヒキガエルの舌表面に作用させ,舌咽神経から求心性の神経インパルスを記録した。各成分を順次加えても各成分の効果の代数和的効果がみられないばかりか,最終的に(−)−エピガロカテキンガレートを加えて天然の緑茶の味に最も近づけると,神経インパルスはほとんど記録されなかった。このパラドキシカルな実験結果は,いかに解釈されるべきであろうか。

そもそも求心性神経インパルスは感覚情報のメッセンジャーたりえないのか。まさかそんなことはありえない。何か未知のからくりが隠されている筈である。それは,ー体,何であろうか。

4.そもそも感覚というものは,その仕組みはわからなくても,現実にわれわれは視たり,聴いたり,味わったりできる。とすれば,味覚に限定していえば,デカルトのいった「我思う,故に我在り」ということは,パロディめくが,「我在り,故に我味わう」ともいえるのではないか。それより「我在り,即ち我味わう」の方がよりよいかもしれない。というのは,前後二文が「故に」によって因果関係にあるとして結ばれるよりは,「即ち」によって両文の内容が不ー不異,あるいは,ー体的なものであることとした方がよりよいと考えたいからである。

私は以前から「在る」ということと「思う」ということは,ー体的なものではないかと漠然と考えていたが,最近,松浪信三郎氏が「デ力ルトのことばは《考えつつ私は存在する》(sum cogitans)という,ーつの明証的な直覚的な真理を示すものとされうる」と書いておられることを知って,我が意を得たりと思った。少なくとも「感覚」に関しては「存在すること」と「感覚すること」とは因果関係を超えて一体不可分であると思うのである。

(ニューフレーバー,p.2‐3,243,1992) 市岡正道 東京医科歯科大学名誉教援