教室備忘録

3.11 東日本大震災の記録

硬組織構造生物学分野   田畑 純

2011年3月11日、午後2時50分ごろ。MDタワーが大きくゆれました。

縦ゆれが20秒ほど続きました。震源は相当に離れているぞ、え、こんなに続くの、と思っていたら
大きな横ゆれがやってきました。続きます。続きます。かなりの大きな地震です。

落ち着くまもなく、余震が次々やってきます。異常な大きさです。
やがて、ワンセグやネットで震源が三陸沖であったことがわかります。

田畑 「津波が来るんじゃない?」
馬場 「うん、確かに来そうだ」

やがて、それが現実となって、岩手、宮城、福島の海沿いの町や村が津波に次々と襲われていきました。


■1.MDタワーの耐震性

MDタワーは地震に対して強固でした。

全体が振り子のように大きくゆれましたが、薬品ビンなどは1本として倒れませんでした。
メダカやキンギョの水槽の水の半分ほどが外にこぼれていましたが、魚の被害はありませんでした。
また、機材や薬品の損害はありませんでした。

(ただ、後々、となりの教室の動物飼育室の悪臭が来るようになったり、空調がおかしくなったりしましたから、
壁の間のパッキンに隙間ができたり、ダクトがおかしくなっていたようです。)

地震直後にエレベータは停止して、夕方7時頃まで復旧しませんでした。
それで、職員はすべて階段を使って昇降しました。8階でよかったと思いました。

私は、行きつけのそば屋で夕食をとり、少し元気が出たので、歩いて帰宅しました。
翌日以降に備える必要があるとも考えたからです。


■2.当日の帰宅状況

地下鉄、JRはまったく動いていません。
渋滞はすさまじく、車はどこでもほとんど動けない状態。
それなのに、バス停はどこでも長蛇の列でした。
淡路町、日本橋、茅場町と多くの人々が歩いていました。

ビルのガラス落下地点は、どこでもピケが張ってありました。
意外にもそれはごく数か所で、都心のビルは強いなぁと思いました。

永代橋まで来るといつものようにライトアップされていて、とてもきれいだったのですが、
こんなときですから、かえって、非現実的な空間を歩いているような感じがしました。
橋を渡りながら、隅田川テラスが浸水していた跡があるのに気付きました。
津波で1mほど水位上昇があったと後から知りました。

この日、帰宅できなかったのは、井関さん、馬場先生、朱先生、鹿島さん、大学院生たち。
これに高野先生も加わって、研究室で一夜を明かしました。

交通は翌朝、再開しましたが、その後も余震などのたびに止まりました。
交通の混乱もありましたし、ストレスなども大きくて、しばらくは大学に来れない人も多い状態でした。

私は翌日からのラボのメンテや留守番役などにあたりました。


■3.学内の被害状況

大学としては、帰宅できない患者さんのための対応に追われたとのことでしたが、
春休み中で学生が居なかったことは幸いでした。

建物の被害で大きかったのは、歯学部7号棟 (講義棟) と歯学部10号棟 (レリーフのある棟)。
入口に段差ができたところや、外壁のタイルが落ちたところが散見されました。
室内でもひどくゆれたところでは、顕微鏡が机から滑り落ちたところがあったと聞きます。
また、講義棟の染色室のガラス器具や標本室の標本にも損害がありました。

やがて、Dawudをのぞく留学生の全員が一時帰国。
また、計画停電などの余波で、徹底的な節電要請があり、人気(ひとけ)がない上に電灯の点灯がない、
廊下も真っ暗に近い日々が続きました。

当分野としてもっとも大きな損害は、5月の連休時に起こった大型ディープフリーザーの故障。
大きな揺れが何度もあったこと、瞬間停電などが何度かあったと思われること、
電灯を落としていたために発見が遅れたことなど、など不運が続いたせいだと思います。

ですから、地震との関係は全くないとは思えないトラブルでした。
中にあった抗体やサンプルがほとんど全滅。
片付けと復旧は高野先生と朱先生が対応してくださいました。


東日本の損害は筆舌に尽くしがたいものでした。

死者1万5千人、行方不明者 3千人、関連死の方の数も膨大。

ご冥福をお祈りしたいと思います。

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