分子細胞遺伝学的アプローチによる癌のゲノム異常解析
―平成9年度高松宮妃癌研究助成金を受領して―

難治疾患研究所 遺伝疾患研究部門 教授 稲 澤 譲 治


 ヒトのゲノムDNAは細胞分裂の時に46本の染色体に分かれますが,癌細胞ではこの染色体にさまざまな異常が出現します。このため癌の染色体分析研究が盛んに繰り広げられました。そして,病型に特異的な異常が次々と見つけ出され,これを指標に多くの癌遺伝子が発見されました。その代表例として,慢性骨髄性白血病のフィラデルフィア(Ph)染色体とBCR/ABL遺伝子の再構成はよく知られており教科書にも登場します。ちなみに,Ph染色体を発見したNowel博士と,これが第9番と22番染色体の相互転座によることを明らかにしたRowley博士は,癌抑制遺伝子の存在閧ワした。その結果,数多くの抑制遺伝子座が報告され,幾つもの候補遺伝子が浮上しましたが,遺伝性腫瘍の原因遺伝子を除き,真のものは余り見つかって来ていないというのが現状です。
 このような背景のもと,私たちは従来の染色体形態学に分子レベルの技法を応用して新しい遺伝子異常を探り出すという分子細胞遺伝学的アプローチを展開してきました。この過程の中でFISH法による乳腺腫瘤の癌細胞診断法の開発や胃癌の新規遺伝子増幅領域の発見,さらに第8番染色体短腕増幅領域からの新しい遺伝子MASL1の単離などの研究成果によって,平成9年度高松宮妃癌研究助成金を受領させていただきました。
 遺伝子増幅は癌遺伝子や薬剤耐性遺伝子の活性化機構の一つとして以前から知られているゲノムの構造異常です。小児癌の一つの神経芽細胞腫ではN‐myc癌遺伝子の増幅が知られており,この変化は予後不良のバイオマーカーとしても利用されています。しかし,発癌過程の中でもかなり後期に出現する構造異常であるため,多くの研究者の興味の外に置かれる傾向にありました。しかし,私たちも利用している比較ゲノムマッピング法(comparative genomic hybridization;CGH法)の登場で,未知の遺伝子増幅領域が次々と発見されるようになり,現在,再びの注目を浴びつつあります。また,この流れの背景にはヒト遺伝情報の成熟があります。例えば米国生物医学学情報センター(NCBI)はインターネットを通して既知のもの,未知のものを合わせ3万種類以上のヒト遺伝子の部分塩基配列や遺伝子座の詳細な情報を公開しており,その内容も日々刷新されています。このように最新の豊富な遺伝子情報が即座に入手できる環境では,ゲノム異常を標的にした癌関連遺伝子のハンティングは,数年前のlaboriousな作業ではなくなりつつあります。そして最も重要なステップが標的となる癌特異的異常の発見そのものとなってきています。現在,私たちは種々の癌に生じたゲノム異常の網羅的スクリーニングを進めており,次々と新たな増幅領域も見つかってきています。また既にその幾つかの領域からは面白そうな遺伝子が顔を覗かせて来ており,期待を寄せながら研究を進めています。さらに一方で,得られた成果を診断に応用する計画を進めており,癌患者の一人一人で異なっている癌の性質を明らかにできる遺伝情報に基づいた「癌の個性診断」を目標に,DNAチップを利用した癌の遺伝子診断法の確立を目指したいと考えています。
 現在教室では学生を含め14名が研究しており,私が医科歯科大学にお世話になるまでに過ごした三つの研究室にならい,土曜日も平日体制として,夢を見ながら追いながら仕事をしております。

平成9年度高松宮妃癌研究基金学術賞ならびに研究助成金の贈呈式の記念写真。二列目右より四人目が筆者。

胃癌細胞株で見つかった新しい遺伝子増幅断片。癌細胞では遺伝子増幅の染色体変化として染色体小断片が無数に出現することがあり、これをdouble minute chromosome(dmin)という(右)。私たちが新たに同定した増幅遺伝子を蛍光標識してFISH法で検出すると、夜空の星のようにdmin上でオレンジに光っているのが分かる。