東京医科歯科大学教養部 | |||
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国府台キャンパスの歴史 | ||
教養部トップへ | 2005年4月14日撮影
1)国府台の名前の由来 教養部がおかれているのは国府台の高台の上である。国府台は千葉県市川市の一部、下総台地の西端にあたり、江戸川を望む景勝の地である。 国府台の地名の由来は、遠く大化の改新にまでさかのぼる。大化の改新により新政府ができると、日本全国は区分され、それらに国府が置かれた。各国府には、奈良の中央政府から国司が派遣され、地方政治をつかさどった。千葉には下総(市川)、上総(市原)、安房(館山)の3つの国府がおかれた。 下総国府の支配領域は広く、今の千葉市以北のほぼ千葉県北半分と茨城県北相馬郡から結城、猿島郡、さらに東京都東部も含まれていた。上総国府とともに政治上第一級の重要拠点だったという。 下総国府の役所の所在地は、諸説あるが国府台や字府中という地名、六所神社の旧位置、さらには出土品から判断すると、国府台1,2丁目あたりではないかと考えられている。和洋女子大キャンパスの改修ににともなう発掘で、国衙の周囲の溝と推定される跡が発掘された。これが本当だとする、野球場のあたりに役所があったことになる。 次のページに詳しく載っている。必見。 2)中世以降の国府台 国府台城は、現在の里見公園から北に伸びる川沿いの台地に立てられた城であった。この城を舞台に、二度にわたって国府台合戦が繰り広げられる。これは、小田原の北条氏と上総の里見氏の争いであったが、北条氏の勝利で終る。これらの詳しい事は下のページを参照。 http://www.hituji.vis.ne.jp/sato/sato65.htmlより(灰色文字は現在の建物などを示す。緑色の領域の左下にある丸に井は「羅漢の井」の位置)。 国府台合戦 二度にわたる国府台の合戦に勝利した北条氏も、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めによって滅ぼされ、この年、徳川家康が関東に移封されると、その居城・江戸城の俯瞰の地であることから国府台城は廃城となった。しかしながら交通の要衝だったので、後に関宿から総寧寺を移すことになる。 総寧寺は曹洞宗のお寺で、始めは永徳3年(1383)に近江源氏の佐々木六角氏頼により近江に創建された。天正3年(1595)に北条氏政により、関宿宇和田(埼玉県幸手町)に移転され、さらに江戸時代に入って元和3年(1617)内町(関宿町)に移転した。 総寧寺は徳川家康の庇護のもと、曹洞宗の寺院の総支配権をもつようになる。 寛文3年(1663)、四代将軍徳川家綱により国府台城の跡地に移転する。その寺領は128石5斗、山林6万7千余坪を占める広大なものだった。現在の寺領は狭くなっているが、当時の参道は里見公園から教養部のキャンパスを突っ切って真間山下まで伸びていた。歴代住職は十万石大名の格式を持って遇され、江戸小石川に邸が与えられ、今でも「下馬石」が境内に残っている。下の図は「江戸名所図会」の国府台総寧寺の図で、右下に大門があり、左側の江戸川から図の下を右へ行ったところに「らかんの井」がある。
3)明治になって この学制は「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という、大きな理想を掲げたものだった。このなかで、全国を8つの大学区にわけ、それぞれの大学区を32の中学区に分け、さらに中学区を210の小学区に分け、それぞれに大学校、中学校、小学校を1つづつ設置するとしている。 関東地方全域と山梨・静岡の両県を含めた地域が第一大学区で、この大学区の大学校の建設地として選ばれたのが国府台だった。明治8年6月、文部省は国府台に大学校を設置することを決定し、台地上の土地24町歩を大学用地として買い上げた。用地は現在の里見公園を中心にした地域で、その中には16町7反余の耕地と17戸の農家が含まれていた。 政府は耕地を1反歩16円で買い上げ、居宅移転料などを支払った。このため総寧寺は現在の里見公園からやや北の位置へ、天満宮は法皇塚から、さらに北の現在地へ移転させられた。こうして大学校の建設用地の買収は終わったが、国府台は高台で飲料水を得るのに不便で(井戸を掘るのが大変)学校用地には向かないという意見が出たり、汽車の便もなく、渡船で国府台に通勤するのは不可能であるとの反対意見が出て、結局この話は立ち消えになる。実現していれば現在の東京大学に相当する大学校が市川市に存在したことになったのだが、残念ながらそうはならなかった。 こうして大学校設置が立ち消えになり土地だけが残った国府台に、陸軍が目をつけることになる。当時東京市内にバラバラにあった陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)をまとめて国府台に移し、病院を併設しようという意見が陸軍省内で討議されて決定され、明治18年から兵営と病院の工事が始まり、教導団病院が9月に落成し、翌年9月には兵営も完成して教導団全団が国府台にまとめられた。 この教導団病院が現在の国立精神・神経センター国府台病院(http://www.ncnp-k.go.jp/hospital/enkaku.html)である。この病院について当時の新聞(時事新報)は次のように報じている。 今のスポーツセンターのあるところに錬兵場があり、教練が行われた。こうして教導団は多くの優秀な下士官を養成し、国府台の名前はそれに伴ってよく知られるようになった。明治32年(1869)に下士制度が改正されたのに伴い教導団は廃止され、教導団病院は国府台衛戊病院と改称される。 教導団の廃止後、跡地に野砲兵第16連隊が創立され、これが明治37・8年の日露戦争に出陣し、旅順の要塞攻撃や奉天大会戦に参加して目覚ましい活躍をとげた。さらに、明治41年と大正8年にそれぞれ、野砲兵第14,15連隊も国府台に移され、国府台一帯は野砲兵の街となる。 この項参考文献 次の記事は、市川よみうり連載企画「市川の道を訪ねて」 http://www.ichiyomi.jp/douro/ より転載(改行は筆者)。 「明治初年の頃の松戸街道は、『成田参詣記』の「真間国府台略図」に描かれているように、市川四丁目の坂を北へあがって、弘法寺の裏門へ向かう切り通し道を途中カギ型に北へ折れ、和洋女子大の正門辺りで街道筋と繋がっていたと思われるのである(自説)。 急坂で道幅も狭く大型車の通行には困難であったのだろう。政府は教導団移転にあたり、千葉監獄所に服役していた囚人を連れて来て、山を切り開かせ、現在のような道筋を造る工事につかせたのである(伝承)。その時総寧寺は牢屋と化し、寺の北側にも獄舎が建てられた(監獄山)。 軽犯罪人には青い着物を、重犯罪人には赤い着物を着せて、足は鎖でつないで、麦と米が半々のむすび一個の食事で、一日中苛酷な労働を強いた。今と違って全てが人力の作業であった。死人も多く続出、引き取り手のない死体は駒形墓地(現堀之内二丁目)へ葬ったという。松戸街道の、市川四丁目の坂から和洋女子大の正門辺りの数百メートルほどは、囚人が命懸けで山を切り開いて造った道である。 明治十八年五月、各兵営の工事が進められる中、歩兵大隊がまずやって来た。教導団病室も真間山弘法寺内に仮設された。同じ年、教導団病院が現在の里見公園内に建設されるが、ここは少し前まで総寧寺の伽藍が並ぶ境内の中だった。遡る明治十三年の新聞記事に、寺領を失った総寧寺が荒れるにまかせていたこと、存続措置が講ぜられていたことが記されている。本堂はこの後、後ろ(現在地)へ引っ張って行かれた。 明治十九年に入ると相次いで兵営が完成、砲兵大隊、工兵中隊、騎兵中隊、教導団本部の順で移って来たが、これら兵営は現在の和洋女子大や東京医科歯科大など学校群の中に建てられ、スポーツセンター(この中に祀られていた六所神社は須和田の現在地へ移転)と、国立国府台病院を合わせた場所には練兵場が造られた。 教導団は明治三十二年十一月に閉鎖するが、この間、優秀な下士官を数多く輩出した。引き続き野砲連隊の第二旅団司令部が置かれるが、その後も変遷を繰り返しながら昭和二十年の敗戦になるまで、松戸街道沿いは「軍隊の町」として栄えていた。」 昭和の時代の前半は、国府台は軍隊の町であった。 4)第二次世界大戦後 |