神経生理学テキスト

    弘前大・医学部・生理     鈴木寿夫

1序論

 このテキストの目的は、神経生理学の大要を紹介することにある。それで、 「生理学(Physiology)とは何か」かを説明する所から始める。生理学は生体 の機能(function)を自然科学的に研究する学問である。その機能は、実際には 生命現象として外界に現れる。したがって、生理学は、生体のあらわす生命現象 の本態を研究する学問といえる。さらに、生命現象は、構造(structure) という実体の上に成立するから、生理学は形態学の基礎の上に立って機能を 論じなければならない。  さて、生理学が学問である以上、種々な観点に立って研究することが可能 である。その中で、いずれの生体にも共通な現象を統一的にとらえて行こうと する立場に立つのが一般生理学である。生体の基本単位は細胞であるから、 生体を一般的にとらえようとするとき、人は自ずと細胞の働きに眼を向ける。 したがって、一般生理学は、各種細胞の特殊性を除いた細胞の有する物理 化学的法則を研究することが主題となることが多い。  これに反して、細胞の特殊性を強調する立場がある。その単位は、器官 (organ)である。それで、この立場に立つときは、生体を構成する器官または 器官系統(system)の機能を研究する。これを器官生理学という。医学部では、 主として器官生理学が講義され、それが植物性機能と動物性機能の生理学に 二大別されている。植物性機能とは、血液循環、呼吸、消化、内分泌、生殖等 植物界にも同種または類似のものが存在する機能をいう。筋運動、知覚器 及び神経系の機能は、動物界にのみ存在するので、動物性機能という。  近年、生理学の進歩は著しい。とりわけ中枢神経活動のそれが著しい。 中枢神経は、種々な神経情報を統合し、動物行動という形で出力される。 この行動の制御ないしその底にある機能を研究する学問を神経生理学 (Neuro-physiology)という。上述の動物性機能の生理学はこれに外ならない。 これから主として神経生理学について述べる。  現代医学の進歩は、膨大な知識を我々に提供している。しかし、それを 断片的に覚えきれるものではない。それらの知識は、われわれが取捨選択 することによって、有機的、統一的なものにしない限り、身についた役に立つ ものにはならない。生理学はこのような統一的な知識をつくる上での基礎と なるものである。また、我々が生理学をまなまねばならないもう1つの理由は、 10年先の学問の進歩を受け入れる基礎を作ることである。このためには、 やはり断片的知識では役に立たない。基礎を養わなければならない。

§1.神経と筋の興奮

 行動を生じる元といえば、それは主として神経系であり、行動発現の手段 としては、しばしば筋が使われる。したがって、行動の機構を知るためには、 神経系、筋の機能を知らなければならない。まず、それらの機能解剖から 始めよう。神経系はニュ−ロンから成り立っている。ニュ−ロンは、細胞体 (soma)、樹状突起(dendrite)、軸索突起(axon)、神経終末(nerve ending)、から成り立っている。従って、神経系の働きを知るためにはまず、 細胞一個一個の機能を知らなければならない。ニュ−ロンの機能は一言で 言うならば興奮(excitation)を発生し、それを伝えることである。この事に よって環境から受けた刺激の情報を中枢に作用させ、又環境へフィード・バック することもできる。  又、筋も筋細胞すなわち、筋線維(muscle fiber)から成り立っている。 筋細胞も興奮が発生し興奮が筋収縮を引き起こす引き金となる。以上から、 筋、神経の機能は一言で言うならば、興奮を発生させることといえる。そこで 始めに興奮という概念がいかにして生じ、それが発展したかを概観しよう。

§2.ガレノスの霊気説

 我々の行動の「もと」、すなわち「心」はなにか、特にそれと我々の身体と どのような関わりを持っているか−−これを心身問題 (body-mind problem) と いうが−−に関しては、人類は、その誕生から、ずっと関心を持ち続けてきたと 言われている。自然科学が始まる以前のエジプトの時代には、まだ「心」の 問題は、脳と関連して考えられていなかった。彼らは、「心」は心臓にあると 考えた。しかし、心臓という構造物自身が、「心」でなく、人間が死ぬと それは、身体からはなれると考えていた。したがって、輪廻によって、また 生を得る時にために、ミイラの横には、心臓の入った壷を残している。  「心」と「脳」を関連して考えたはじめての人は、プラトンであると言われて いる。しかし、彼はそれを実証的の論じたのではない。単に、直感的に感じたに 過ぎない。この問題に対し、解剖・生理学的な観察に基づいて、気(pneuma; spirit)を生命の元とする説を唱えたのが、小アジアの Pergamon に生まれた ガレノス(Galen 129-200 A.D.?)であった。そして、人は、17世紀まで、 この奇妙な説(galenist doctrine)を信じ続けたのである。 この説に よれば、消化管で消化された栄養物は肝臓に行き、そこで血液が作られる。 血液は、心臓に行き生気(vital spirit)にかえられる。これは rete mirable を通って動物霊気(animal spirit)となる。その大部分は脳に行き、欲望、 思考、記憶が生じる。一部は、神経線維を通って、末梢へ行き、感覚、運動が 生じるというものである。  デカルト(R.Descartes 1596-1650)もガレノスの説に従って彼の考えを 進めている。しかし、ハーベイ(W.Harvey 1578-1657)の「血液循環の原理 (Do motu cordis)」が出版されるに及んで、ガレノスの説を疑う人が多く なった。

§3.興奮概念の成立

 神経を、上述のように霊気のような得体の知れないものでなく、科学的に 調べようとする気運が生まれてくるのは、1800年近くになってからである。 その出発点もまた、電気という神秘的な現象と結びついていた。Galvani (1737-1798)は、1782年に蛙の足を銅の鈎で鉄柵にぶらさげておいたところ、 足が鉄柵に接触すると収縮するのを見た。この事を、彼は生体に固有の電気が あり、それが回路を流れるためであると解釈した。これに対してVolta (1745-1827)は、二つの異なった金属とその中間にある電解液のために電気が 発生し、それが足を刺激したのだと反論した。既ち、一方は生体電気の存在、 他方は、電気刺激作用を強調したことになる。  Galvani及びその派の人々は、そこで、金属なしで筋肉の収縮を生じさせる 実験をした。まず、Galvaniは筋を傷つけ、そこに神経筋標本の神経端を接触 すると、それにつながった筋が収縮することを見いだした。ここには金属が ないから、生体電気があるとする。次いで Matteucci(1711-1865)が、 二次収縮を見い出す。しかし、今考えてみれば、生体に電気もあり、又電池も できている。すなわち両方正しい。しかしこの論争は、多くの人々を神経筋の 興奮現象に興味をいだかせるのに役立ったことはまちがいない。  さて、ここで筋神経標本の一端を電気刺激すれば、筋が収縮する。このとき、 刺激する一端と収縮する筋は離れており、それが神経線維でつながっている。 このようなとき、当然、神経の一端を刺激することによりある現象が生じ、 それが線維を伝わって筋に達し、それを興奮させるという考えが生じた。この 伝わる「あるもの」を興奮と名付けた。従って、興奮という概念は非常に漠然と したものから出発したのである。  ここでまず本当に伝わるかということに決着を付けたのは、Helmholtz (1821-1894)であった。彼は伝導するならば、2点間に遅れが生じるはずである から、実際に神経線維で筋に近いところを刺激したときの筋収縮が、遠い所を 刺激したときの収縮より早く生じることを調べ、神経線維を興奮が伝導する ことを実証した。  つぎに興奮の本体は何かということについて実験が行われた。しかし 興奮現象があまりに速やかな現象であるため、それを測定する方法がなく解明 されるのは遅れた。まず、当時の検流計を使って、du Boi-Reymond(1818-1896) が、興奮している部位がまわりに比較して負であることを見いだした。ついで、 Bernstein が1868年に、ガルバノメーターとレオトームをたくみに使用し、 一種のサンプリング法をつかって、神経の動作電位がミリ秒のオーダーである ことを見い出した(Claude Bernard 1813-1878)。  しかし興奮の詳細が知られるには1930年代まで待たなければならない。そこで 初めて陰極線オシロスコープ(cathode ray oscilloscope)が発明されたので ある。陰極線オシロスコープは、電子銃から電子を打ち出し、それを蛍光面上に 表示する。そして偏向板間にかける電圧によって、この電子ビームを曲げ、 蛍光面上の点の変位として表す。電子を使うので慣性がなく、従って興奮時の その局所の電位変動を忠実に描記することができる。この装置を使ってErlanger とGasser(1936)は興奮時に生じている負の変化を詳細に述べた。その結果、 興奮が生じている所は、 a)必ず周囲に対して負の電気変化を示す。 b)興奮は一瞬にして終わる。ミリ秒のオーダーである。 c)興奮は全か無かの法則 all_or_nono low に従う。 d)興奮は伝導する。 ことを見いだした。この電気変化は、活動電位(actionpotential)と呼ばれる。 つまり活動電位が生じている組織は興奮しているということができる。即ち、 活動電位=興奮ということができる。 文献 Brazier, M.A.B. The historical development of neurophysiology. In Handbook of Physiology (J.Field ed.), Washington, D.C., American Physiological Society, sec.I. vol.I, 1-58,1959. Hoff, H.E. and Geddes, L.A. The rheotome and its prehistory; A study in the historical interrelation of electrophysiology and electro- mechanics. Bull. Hist. Med., 31, 212-234 ;327-347,1957. Erlanger, J. Prefactory chapter. A Physiologist reminisces. Ann. Rev. Physiol., 26, 1-14, 1964. 中村眞里 血液循環の発見−ウィリアム・ハーヴィの生涯− 東京.岩波.1977. (岩波新書)