健康創造学

第三の信仰

−対話で人は生まれ変わる-

1.「心を育てる教育」と「生きる力を身につける教育」
  を実現するための処方箋

2.健康と倫理性を育てる医学教育の新しい試み:
   疾病の予防と治療中心の医療から
          健康創造の医療へのパラダイムの転換

志 村 則 夫

東京医科歯科大学、歯学部予防歯科学、助教授


健康創造学の理念と応用

目次

はじめに:いかされて生きる私のいのち

第1章:衛生学、予防医学、予防歯科学から
       
健康創造学へのパラダイムの転換

第2章:健康創造学の人間観

第3章:いのちの二つの意味

第4章:真のセルフケアーは、他者や自然を大切にする心を育てる

第5章:いのちの能動性を育てる

第6章:知情意は、人間存在そのものをあらわす

第7章:健康創造へのプロセス

       臨床例★A

第8章:第三の信仰:対話で人は生まれ変わる

第9章:私の全人的医療−心身医学の常識を超えるとき

第10章:常識をぶっ飛ばせ! リアリテイーが見えてくる

第11章:心臓の神経は繋がなくてもよいのか?
              
知と情を分離するなかれ

第12章:いのちの能動性を育てることが、心の教育です

おわりに:私自身に捧げる「こころ」の処方箋


はじめに:いかされて生きる私のいのち

 医学、歯科学そして医療の最終の目標は、人々の健康を実現していくところにあるといえます。しかし現代医学が疾病の予防や治療のための研究や教育や臨床を行ってきたとはいえ、人々の適応力を強化し、人間的な成長を図るといった方向での医学(健康を創造するための医学)を育成してきたとは思えません。
 人類は遥か昔、ピポクラテスの時代から、自然や社会、文化的環境の心身への侵害性を指摘し、人間が疾病を免れ、健全な心身を維持するための理想的な自然や社会、文化的環境を科学してきました。こうして今日、自然環境に手を加え、社会環境を整備することで、人々の疾病が予防できるという確かな成果が認められています。この成果は図り知れないものでしたが、その一方では科学的に制御された環境、生活がかえって、人々の適応力を弱化しているらしいことも知られてきましたし、環境ホルモンなどの新たな問題も生じてきています。
 科学のメスが入れられていない荒々しい自然環境であったり、ストレスの多い社会環境、人間関係である方が、むしろ心身の適応力を強化していることが、最近次第に明らかにされてきています。これらの現象を現代医学はどう解釈するのでしょうか?
 現代医学が人間の心身が外界の環境に一方向的に揺り動かされるという視点のもとで、これからも、自然を対象化し、自らの心身を対象化し、社会や人間関係を対象化し、外界を客観的に科学することで健康が得られ、疾病やその他の問題が解決されるという考え方に固守し続けるならば、これらの現象の意味を理解し解決していくことは、極めて困難なことになるでしょう。
 現代医学が自らのパラダイムの陰で見落としていた、人間の本質、外界とコミュニケーションを図りながら、自らの心身を刻々と変化させる働き、生命のエネルギー(いのちの能動性)の存在と意義を考慮しない限り、答えは見えてこないに違いありません。そして現代人に健康は創造され得ないと考えるのです。
 人間は自然や社会環境といった外界から一方向的に影響を被っているわけではなく、むしろ外界との相互関係・コミュニケーションの中に、心身を変化させて生を営んでいます。私たちは、その生命の本質(いのちの能動性)が外界と最適なコミュニケーションを図るところに健康が創造される(人々の適応力が強化される。人間的な成長にもつながる)との人間観、健康科学観に立ち、いのちの能動性を育てるための臨床研究を積み重ね、その評価法も研究してきました。その成果を医学、歯学ばかりではなく、広く教育や福祉の関係者や一般の方々にも公開し、伝えたいと考え、ここに、健康創造学*-1、全人的医学・医療(人間医学、人間歯科学)、の講義と実習を開講し、夜間セミナーも開講いたします。

*-1:健康創造学、人間医学、人間歯科学、:これは人間科学(Human Science:生物学、心理学、社会学、人類学、生活学、教育学、児童学などの経験科学の総称、ないしはそれらの諸視点を総合して人間を理解しようとする科学)とは、概念を異にします。どちらかと言えば、人間学(Anthropology)に近い概念です。
とはいえ、形質人類学、自然人類学、文化人類学など、生物学的、身体科学的、文化、社会学的な視点を単独もしくは学際的に総合した人間学を意味するのではありません。人間の心と身体と文化の三者は、現象としてみても、それぞれ分離独立して存在するものではなく、この三者は常に固く結合して一体をなしていると思うからです。
人間の主体性、志向性、価値、実存、全体性など、人間の本質や全存在に理解を進めるために、哲学、文学、芸術、宗教などとの関係性のなかから人間理解を進めていくカントの哲学的人間学、総合的人間学に近い概念です。
健康創造学(人間医学、人間歯科学)は、人間全体や主体性、志向性の理解を進める姿勢において、哲学的人間学、総合的人間学により近接した学問ですが、宗教や哲学、芸術学などに接点を求めたのではありません。人間の心身の在り方を、複雑系ととらえ、それを科学することにより、人間の本質、自己組織化能力、自己創出性に迫り、それにより人間全体や創造性や主体性や自立性の理解をすすめ、健康を創造していく学問です。人間の本質、全体性(全人)に、[複雑系を科学する]という新しいアプローチ法で人間理解を進めていく点が、哲学的、総合的人間学と相違します。

第1章.衛生学・予防医学、予防歯科学から

         健康創造学へのパラダイムの転換

 衛生学と予防医学や予防歯科学の教育目標は、疾病の予防と治療ができる単なる技術者としての医者、歯医者を育てるだけではなく、時代や地域の特性を読み取り、人々の健康を実現するために、如何に疾病の予防や治療を展開すべきかの判断力と、それに応える能力、知識と技術とセンスを備えた医師を育てるところにおかれてきました。
そこには、確かな知識と技術をマスターし、疾病の予防を中心とした医療を遂行できる医師像の実現はもとより、人々がどうか幸せであれ、健康であれと願う、人間性豊かな医師像の実現が強くイメージされて教育や実習が進められてきたのです。
 衛生学、予防医学、予防歯科学は、人間の健康や疾病を、人間と環境とのダイナミックな関係の中に探りつづけてきた学問であるという点において、解剖学、生化学、細菌学、病理学などの基礎医学や保存、補綴、矯正、内科学、外科学などの治療学の研究の姿勢、視点とは、次元を異にしているといえます。
 歯学、医学教育が人間教育を目指し、医療が、地域の人々の健康を実現することを中心に据えた医療であろうとするなら、人間と環境とのダイナミックな関係を理解しておくことは、必須なこととなります。何故なら、健康とは、人間と環境をそれぞれ分別し、科学し、得られた結果を総合したり、それらの間の因果関係を明らかにしていこうとするサイエンスから導かれてくるものではないからです。
 人間も環境も、それぞれ分析され、知的に理解をすすめられた瞬間に、真如(真如とは、如であること、ありのままであること、またあるがままの姿、すなわち人間を含めた宇宙全体に起きる現象は無常であり、一切の存在は固定的実体を有しない、すなわちすべての出来事は関係の中に生起し、変化しつづけているということ:哲学事典、平凡社)から逸脱して観念になってしまうからです。
 この真如を含めての人間全体まるごとを理解できなければ、健康の、その真の姿には迫まれません。そこで、従来の衛生学、予防医学、予防歯科学は、できるだけ多くの客観的事実、あらゆるジャンルの科学を総合した、いわゆるインター・デイシプリナリーのサイエンス(広義の行動科学あるいは前述の人間科学)を応用し、健康に迫ってきたつもりでした。しかしそれとてもまた、客観的な分析法をもちいた科学の知の寄せ集めであるかぎり、どのように知を総合しようとも、人間の本質ともいうべき真如(カオスの世界、複雑系)を科学し得なかったのです。
 私たちは、この真如、人間の真実在*-2の姿を科学するところに健康の科学が創造されるとの仮説を立てて、臨床研究、疫学的研究、基礎的研究を重ねてきたのです。これらの成果を集大成した学問を健康創造学とか全人的医学・医療*-3(人間医学、人間歯科学)と名づけたいと考えています。そこでは、従来の衛生学、社会医学、予防医学、予防歯科学、行動科学、人間科学などがなし得なかった人間の人格的成長を促し、適応の生理機能を強化させる戦略が具体的に述べられます。「健康創造へのプロセス」は、個人の主観を大切にしながら、それを普遍化させていくというまったく新しい健康への処方箋であるのです。

*-2:M・ボス著:東洋の英知と西欧の心理療法、みすず書房;
湯浅泰雄著:気・修行・身体、平河出版

*-3:全人的医学・医療:近年、疾病構造の変化にともない、現代医学は心身医学、全人的医学・医療の必要性に迫られています。しかしそれらが人間科学や行動科学の人間観、戦略に立っている限り、真の全人的医学・医療たり得ないと考えられるのです。

第2章.健康創造学の人間観

 健康は人間全体(全存在)を丸ごとわかり、その全存在と外界との相互依存的な関係の中から刻々と創造されてくるものであるとの健康観を抱いた私たちは、まず人間全体をわかるにはどの様な人間観を仮定すべきかを明確にしました*-4
 健康創造学や全人的医療の人間観は、疾病の予防と治療を中心に考えてきた現代医学のそれとは本質的に相違しています。またこの人間観の相違から生じる、医師の患者さんへの対話内容や態度も必然的に相違したものになるのです。健康創造学の人間観を理解し、それを深めていけば、自然に対話の質(内容や態度、姿勢)に変化が生じ、現代の二つの危機とされる、人間性の解体化と地球環境の破壊*-5が本質的に解決されていくと考えているのです。
 人間観の相違については、以下に示したシェーマから理解されるように、図の左側は現代医学の考える人間観です。人間を身体的、心理的、社会的、倫理的などの種々の側面に分けて、それぞれを科学し、それらを総和すれば人間が理解されるという視点です。しかし、人間はこれらの各側面の総和以上の何者か(存在)であるといわれます。
 現代医学の示してきた人間観は、人間の心身が、外界と対話をしながら、一時も止まることなく揺れ動いているとの真実の在り方(真如)をまったく配慮していません。この真実の在り方を考慮すれば、人間の心身は、カオスの世界(複雑系)*-6に喩えられます。その複雑系には、ある一定の機能や形態を生み出していく働き(自己組織化能力=いのちの能動性)が絶えず及んでいるから、心身の状態が恒常に維持されていると考えられるのです。
 このことを考慮して、健康創造学の人間観には、生命エネルギー、いのちの能動性が、人間の本質的なものとして語られているのです。このいのちの能動性が、外界と絶えずコミュニケーションを図りつつ、今現在の自分の心身に、刻々と新しい心身(心理や生理)を創造させていると理解するのです。しかし、従来の人間観は、いのちが外界に開かれダイナミックにコミュニケーションをしているという事実を無視した観念であるといえましょう。
 今日まで、そして今も尚、この観念に縛られたパラダイムで、研究を進め、医学を体系づけている限り、文字通りいのちの通わぬ、倫理性が育たぬ医学、医療に陥る危険があります。病気を効率的に予防したり治療技術の優秀な医者、歯医者は、そこから生まれてきても、現代医学の人間観からは、いのちをわかる倫理的な医師が育ってこないといえるのです。
 私たちは、衛生学、社会医学、予防医学、予防歯科学から健康創造学へパラダイムを転換し、いのちをわかり、いのちを育てることが、21世紀の医療の最大目標*-7であるとの認識の上で、疾病の予防や治療を進めていける知識と技術とセンスを兼ね備えた医師が誕生すべく、教育を進めています。

*-4:健康創造学の人間観と現代医学の人間観:

左の図にあらわされた人間の各側面の現象(結果)は、右図に示された生命の力、いのちの能動性が外界とダイナミックにコミュニケーションをした結果です。いのちの能動性を今ここでのこころ、知、情、意にみて、それを統合させるところに人間を成長させる医療、全人的医療が実現されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*-5:人間性の解体化と地球環境の破壊:現代は有史以来の二つの人類的危機、すなわち「外なる自然」破壊と「内なる自然」破壊の危機に直面している。前者は地球環境の破壊であり、後者は人間性の解体化である。この二つの危機は表裏一体のものであり、近代の原理の必然的帰結として生じたものである。この二つの自然破壊の根底には、つながり合う<いのち>の全体がバラバラに分断されてしまったという問題がある。…高橋史朗著、(p120、N0.2,1997;現代のエスプリ、ホリステイック医学と教育、石川光男・高橋史朗編)

*-6:人間の実存(いのちの働き=自己;後述)は、外界や自我と対話をしながら、刻々と自らの心身を揺るがせて、新しい心身を創造している。サルトル曰く「実存は本質に先行する」。この哲学を科学するとき、真の全人的理解、全人的医療が可能となる。吉永良生著:複雑系とは何か、講談社現代新書、1996

*-7山崎久美子編:21世紀の医療への招待、(第8章、健康学を求めて、p102-124、志村則夫著)誠信書房、1991.

第3章.いのちの二つの意味

現代人の多くの人々は、この世に生まれる以前の自分について、どの様な理解を進めてきたのでしょうか。誕生以前のいのちの在り方については、科学の世界、医学の世界では、ほとんど意識してこなかったといえます。しかし、三木成夫先生の解剖学論集、第一巻の生命形態の自然誌*-8には、形態的に「人類の原始のおもかげ」をうかがうことが可能であると述べられています。人胎児が受胎まもないホンの数日の間(受胎32日から38日までの7日間)に、約4億年前の魚類の顔、約2億年前の両生類の顔、1億5千年前の爬虫類の顔、そして原始哺乳類の顔(5千年前)と次々とその顔貌の変化を遂げているらしいのです。
母親の胎内でこの4億年の歴史を経験し、そしてこの世に誕生したのだと思うと、おもわず胸が熱くなります。
 最近の遺伝子研究では、36億年前に地球に生命が誕生したといわれるその時から今日まで、一時も止まることなく、連綿として続いてきた自分の「いのち」の働き、存在に研究の目をむける必要性が述べられています。
 この人類のおもかげに思いをめぐらすと、自分を生んでくれた父母を思い、その先祖に思いをめぐらせるだけではなく、この大いなる海原、地球や宇宙に対し、母としてのノスタルジアをごく自然に感じるのではないでしょうか?
いのちという言葉を、辞典で調べると、大きく概念の異なる二つの代表的な意味に出会います。
一つは日常の会話や現代医学によく用いられる「寿命の意味としてのいのち」です。
いま一つは「生物を連続させていくもとになる力」を意味しています。つまり、三木先生の研究に見てきた如く、生物が、親子代々の連続の中に、ずーっと受け継いできたいのちの働きのことです。36億年前から一瞬たりとて跡絶えることのなかった親から子へ、子から孫へ、孫から曾孫へと、波状に伝わっていく働き、「永遠の意味でのいのちの働き」です。そこには何か、その波がいつまでたっても絶えることのない、底知れぬ奥深い力が働いているのではないかと思わずにはいられません。
私は、日常の生活や医療の場で、この永遠のいのちの働きを感じるとき、自然に敬虔にならざるをえないこころの状態、感慨とともに、この大いなる働きを意識するのです。
遺伝子研究者のR・ドーキンスの考え方をかりて表現すれば、この大いなる働き−「利己的遺伝子」−は、36億年の物語を背負い、ビックバンの歴史もたずさえて今日まで、人間の心身を方舟にして、存続し続けてきたといえるのです。時空間を超越した永遠の働き(いのちの能動性)としての意味での「いのち」を現代医学は軽視してきたのです。
このいのちの働きは、精子と卵細胞が出会って以後、やがて60兆個からなる細胞を誕生させ、その天文学的数の細胞群に統合性をも与えているのです。自然界を統合している理であるとも言えるのです。
細胞一つ一つをとっても、臓器一つをとっても、そして人間においても、このいのちの能動性が働いていればこそ、そこに調和と健康が創造されることになるのではないでしょうか。
 この永遠のいのちの意味に対して、先に述べた「生物がある一定の期間存続する姿」に与えられた寿命といった意味でのいのち、「オギャー、オギャー」といって生まれてから、息を引き取るまでの人それぞれ長短さまざまな期間がありますが、その人間が息をしている期間、そのいのちだけを現代医学は強調してきました。
 永遠のいのちは、宇宙全体を支配しているような大きな生命の波の中から、ごく自然に浮かび上がってくる「いのちの在り方」であると思えるのです。そして寿命の意味でのいのちは、その自然界の理である永遠の意味でのいのちから切り離された個々の波の長さということになるでしょう。
 さて、現代人が医者にかかったり、セルフケアーをして、護ろうとしているのは、寿命のいのちの意味ではないでしょうか。一分でも一秒でも生き延びることを目標にしていれば、他人の臓器を購入してでも寿命を延ばす事にそれほどの倫理性の欠如を感じないかもしれません。
 また頭髪が白くなり、老眼鏡を必要とし、耳が遠くなるように、唾液が少なくなり、歯が弱り、歯茎も老化がすすむとき、口だけをみて、歯を丈夫にしては、他の臓器との関係を無視してしまうでしょう。年齢を重ねていくうちに、腹八分目(養生訓)、腹六分目、五分目(五木寛之著:大河の一滴*-9より;自分の身体に聞いてみる)と食生活を変化させていく事も大切です。ひょとすると歯もそれに応じて弱り、噛む機能が落ちていくのがよいのかもしれません。
 しかし、寿命の意味でのいのちを大切にしようとするあまり、歯を一本でも多く口腔に残そうとして、前者のいのちの意味を見失ってしまっては、極端な言い方をすれば人間ではなくなってしまう恐れがあるということです。健康はこの二つのいのちを大切に育むところに生じるのではないでしょうか。
 私は、この二つの「いのちの意味」がわかり、患者さんや地域の人々に、まず健康を創造できる対話「知識と技術と態度」を示し、その上で同時に予防や治療を展開できる医者になってもらいたいと願うのです。

*-8三木成夫著:生命形態の自然誌、第一巻、解剖学論集 p440、1994.

:約4億年前の顔(魚類)、

 約2億年前の顔(両生類)、

 1億5千年前の顔(爬虫類)

 そして原始哺乳類の顔(5千年前)

  へと変化を遂げていくシェーマ

 

 

 

 

 

 

 

*-9五木寛之著:大河の一滴、幻冬舎

第4章.真のセルフケアーは、
       他者や自然を大切にする心を育てる

この視点、いのちの能動性を考慮した人間観の重要さは、単に医学、歯学教育に限ったものではなく、後に討論する中教審が示した教育指針(1998.3.31)を実現していくためにも必須なことであると関係各位に伝えたいのです。なぜなら中教審がまとめた教育方針、「生きる力を身につけ、心を育てる教育」を現実のものとしていくには、いのちの能動性を育てるための理論がわかり、その人間観から生じた態度で生徒や学生との対話をすすめていくことが、必須なことと思うからです。
 また健康のためにと、好きなタバコや酒を止めたり、甘い菓子類を制限したり、食べたら直ちに歯を磨かなければと考えて、涙ぐましく努力している人々に、こんなにまでして、大切にしようとしている自分とは、一体、どんな自分像なのかと問わなければなりません。
 なぜなら現代医学の観念的な人間観で、自分を守ろうとするのは、自分の歯であり、口であり、肝臓、心臓であるでしょう。これは自分の身体、心理を守ろうとしている姿であり、エゴ(自我)を育てることにすぎないと考えます。このように、病気を恐れて、理想的な生活スタイル、早寝早起きとか、ジョギングをするとか、朝食を必ず食べるとか、睡眠時間を7時間はとるべきとかをストイックに守っている人々に出会うたびに、私は、それだけではないでしょう、なにかが足りないのではといつも思ってきたのです。
確かに、健康的な生活スタイルであると科学的に証明された行動を、自然な生活習慣として受け入れている人もいて、そういった人々は心身の健康を勝ち得ていると考えられますが、しかし、意識的に適応の生理機能を強化しようとしたり、創造性とか自立性を育てるのだとの思いで、それらの生活習慣を見つめているかは疑問です。
現代人のほとんどの人々は、現代医学の示す人間観を背景に、病気を恐れ、ストイックなこころの状態で、理想的な生活スタイルを守ろうとしているのではないでしょうか。これでは、むしろ健康が害されることの方が多いのではないのかと私は感じているのです。
フィンランドの保健局の管理職を対象にした10年間にもわたる疫学的研究、それは科学的に裏付けのある理想的なライフスタイルを守ることで、健康増進を図ろうとした研究でしたが、結果は、意図に反して、癌や糖尿病の発生数やその他の成人病や自殺者が、これらの理想的生活を行なわなかった対象の人々たちよりも多かったというものでした。何故こんな結果になってしまったのか、フィンランドの研究者の報告を見ると「治療上の過保護と生体の他律的な管理は、健康を守ることにならず、逆に、依存、免疫不全、抵抗力の低下、要するに不健全な状態をもたらす」と述べられています*-10
科学的に裏付けのある「健康的な生活行動に向けての行動変容が、現代人の健康を増進する」と強調してきた先進国、そしてWHOにとってこの結果はショックに違いありません。なぜなら彼らが進めてきた、健康増進のため、現代病の予防のための戦略がかえって不健康へとプッシュしてしまっていたのですから。ヘルスプロモーションの考え方*-11は、「現代の神話」にしかすぎなかったと思えるのです。健康を語る上での人間観に本質的な欠陥があったのではと疑問が残ります。
 私たちは、この疑問に答えるべく約10年間に亙る疫学的研究をすすめてきました。そこでヘルスプロモーションの考え方は、確かに現代病を予防するには、それなりの成果が上がるかもしれませんが、健康を実現するとなると、この人間観や戦略では、不可能であると結果されたのです。
 そして先進国の研究者達−メルボルン大学の元歯学部長、クライブ・ライト教授(オーストラリアの齲蝕予防の戦略は目覚しいものであったが、その先駆者の一人)や日本でも高名な歯科行動科学者のワインシュタイン博士ら−を迎えて、長崎大学、歯学部の高木興氏教授、岡山大学、歯学部の下野勉教授、長崎歯科医師会の常岡正廣先生たちの協力を得て、ヘルス・プローモーションからヘルス・クリエーションへのパラダイムの転換*-12を願って、シンポジュウムを開いたのです。
 その席で、「人間観にいのちの能動性が配慮されていないヘルス・プロモーションには限界がある。WHOの考え方では、健康は実現しない。私たちのヘルスクリエーションの考え方が大切である」ことを伝えよう努力しましたが、当時の上の学者たちには、まったくと言ってよいぐらい聞く耳がありませんでした。
やっと、2,3年前から厚生省が、現代の疾病はライフスタイルが、原因であるとの見解を示し、国民が自分の生活スタイルを反省し、変容することが望まれると述べ始めました。その見解は、正しいことであると思いますが、ここで大切なのは、ヘルス・プロモーションとヘルス・クリエーションの相違をはっきりと国民に示すことです。さもなければ我が国も先進国の二の舞を踏むことになるのではないかと恐れるのです。先進国の戦略は、健康増進といっても結局は、現代の疾病のほとんどが生活行動の良し悪しから引き起こされるとの疾病観を背景にした疾病特異的な戦略という結果になってしまいます。現代病すべてに共通する不健康な生活スタイルを正そうとの考えにおいては、非特異的な見方であると言えますが、結局人々の行動を変容しようとして人々に関わる態度が、善か悪かの特異的な戦略となってしまうのです。ここからはいのちの能動性や個性や創造性や自立性などが生じるはずはありません。
特異的な戦略で疾病が予防されても、人々に自立性を育て、人々の心身の適応力を強化するといった非特異的な戦略が考慮されていないから、現代人は次々に新たな疾病に襲われているばかりではなく、人間性が解体化されようとしているのです。
この簡潔明瞭な論理が、疾病中心にした人間観、疾病観で、研究や教育や臨床を進めてきた人々には、なかなか理解が困難なようです。
 いのちの能動性を考慮した人間観のもとでのセルフケアーは、他者に生かされている真実の自分(本当の私=いのちの能動性=自己)を育てることに繋がるような生活行為をしています。なぜなら自分と外界との相互依存的な関係の中に、自らの心身が創造されるとの考え方を理解しているからです。病気を恐れてのセルフケアーは、自分だけの心身の健全を求めるのに対して、いのちの能動性の働きを考慮したセルフケアーは、自分だけに目が向いているのではなく、自分を取り巻く総ての世界に目が向うのです。この両者の違いがわかってはじめて、行為されるセルフケアーは、自らの心身を健康にするばかりではなく、他者を健康にし、地球環境を健康にしたいとの思いを深め育てることになります。
 自分の身体やこころを守るべく、科学的に明らかにされた生活スタイルを死守したり、肺ガンを恐れるあまり、ほっと心の和むタバコ一服を禁止してしまったり、甘い菓子を食べてゆったりした気分や緊張が解けた自分の身体の状態を愛しく思う間もなく、せっせと歯を磨こうとする行為が、かえって身体全体の適応力を減弱させたり、心のバランスを崩す恐れもあるということに気づいてほしいと思います。
いのちの能動性をイメージできていれば、そんな自分の声を聞いて、心地よさを選択するはずです。それでは勝手気ままでよいのかという疑問がおきますが、いのちの能動性(自己)は他者との相互依存的関係を大切にし、それが調和している時が一番安定していますし、また自我とも対話をして、勝手な振る舞いをすれば、本来の自分から逸脱していると感じます。それは心身にとって、居心地が悪い状態であると認識されるのです。勝手な自分(エゴ)の存在を許さないほど、本当の自分(自己)に目覚め、それを大切にしようと思う方向に心が動きます。ここに真の意味での倫理性(こころ)が育つのであると思えるのです。
日々のセルフケアーから人間的成長が促されていると考えるのです。私は患者さんや地域の人々とここまでかかわり、わかり合って、初めてホッとするのです。
これは現代の予防医学、予防歯科学の知識と技術や行動科学、ヘルスプローモーションの考え方やアプローチ法を背景に、人々をあるべき生活スタイルに向けて行動変容すべく、一方向的に教示的に関わる態度とは大きく異なっています。ストイックな、セルフケアーを患者さんや地域住民に迫る、これでは、健康は創造されないと私は考えるのです。
 いのちの能動性への思いが深まるにつれ、人間は、自分自身にやさしくあることと、他者や自然環境をいとおしみ、大切にすることとが、同じことであるとわかる意識が深まります。いのちの在り方が明らかにされていない人間観のもとのセルフケアー、教育、福祉、介護、医療は、絵空事でしかありません。

*-10:R.ジャカ−ル著、菊池昌美訳:安らかな死のための宣言、新評論、1993.&(健康的な生活習慣を守るようにプッシュした管理群の人々が、かえって不健康になってしまったという報告、天声人語より、朝日新聞、1993.7.23)

*-11:島内憲夫訳:21世紀の健康戦略、1,2,3,4 ヘルスプロモーション、垣内出版、1996

*-12:N.Shimura et al; Health Creativity and Behavioral Dentistry,Yunitekku,Ltd,1993.

第5章.「いのちの能動性」を育てる

 歯にも「自己治癒能力があるのです」と言うと、本当かなと驚かれる人は多いのではないでしょうか?一般には、歯は生命反応がなく、口の中で石のようにじっと黙っているものと思われています。歯医者さんでも、歯は生きていると考えている人は少ないはずです。実は私も、虫歯や歯周病の原因を口の中だけに追い求めていた時には、歯は石のように死んでいる物質であり、やがて口の中に棲む細菌に一方的に犯されていくものであると考えていました。
 しかし、これらの病気を人の生活行動や心理との関係から理解しようと、研究を進めてきて、目がだんだん拓かれてくると、歯や歯肉は心臓や肺や脳のように生きていることが見えてきたのです*-13
 砂糖の入った甘い菓子や清涼飲料水を摂取すると、舌苔や歯垢中の細菌が増加したり、酸も産生されてきます。それによって歯や歯肉は一方的にダメージを受けているものだと考えられていますが、そうではありません。口の中の細菌や歯垢中の細菌の増減に関し、それらをコントロールすべく歯と歯肉の間にあるポケットや歯肉から免疫物質が分泌されたり、唾液を介して免疫物質が分泌されてきます。酸で溶かされた歯の表面を修復する働きは唾液の分泌量や成分の質により変化します。こうして歯や歯肉は、周囲の環境と能動的に反応し、ダイナミックなコミュニケーションを展開していればこそ、その生理機能や姿形が健全に保たれているのだとわかってきたのです。口唇や顔面の筋肉の緊張や全身の生理機能とも呼応しながら口の中でバランスを取りながらその生理機能が揺れ動き、歯や歯肉の蛋白質やミネラルが刻々と入れ代わり、一時もとどまることなく変化しつつ、「ある一定の姿形」を保っているのが本当の姿なのです*-14
 これは、さながら人間が他者との対話、社会の変化、自然の変化とコミュニケーションをはかりながら、一定の人格、一定の姿形を保っている様と同じであるといえるでしょう。
 したがって歯の組織を顕微鏡で観察すると、そこには昼夜のリズム、週のリズム、年のリズムをうかがい知ることもでき、季節の変動もわかるのです。歯は人間の暮らしや自然や宇宙の出来事を写し撮り*-15、外界とコミュニケーションをしていることが明らかにされてきました。歯も歯肉も心臓や肺や胃腸などの臓器と同様に全身やこころの変化に呼応して刻々と変化しいればこそ、健全な姿を保てていると見えてきたのです。
歯や歯肉や人間にこの様なコミュニケーションをさせている働きを「いのちの能動性の働き」と呼び、このいのちの能動性についての研究を進め、それを育てていける医療こそが、自然治癒力を高め、健康を創造する医療なのではないでしょうか。
このように永遠の意味でのいのち働きが、人間の本質であり、寿命の意味でのいのちは、その陰にすぎません。寿命ばかりのいのちを見ていれば、当然そこには歪みが生じるでしょう。現代の医学、歯科学、医療はその危険を孕んでいたのだと研究を通じて私たちは知ることが出来たのです。
身体局所、口腔内でのいのちの働きを大切にすべきと考えるようになれば、口腔の健全のためにとやみくもに歯を磨いたり、歯垢を悪者と決め付ける偏った視点が不自然であることに気がつくはずです。一つの科学的事実に縛られて、こころの余裕を失ったり、行動が一律化する危険を防げます。歯科保健から健康な心身、行動が生じるのです。
 私たちは、山形県、鶴岡市の某小学校でこんな思いで、学校保健、学校歯科保健を展開してきました。歯科保健教育を通じて、口腔内を管理するだけではなく、いのちの不思議さをわかり、それを育てていく歯科保健教育が必要なのです*-16

*-13:志村則夫著:歯磨きと人間、クインテッセンス出版、1995

*-14:志村則夫著:歯医者に虫歯が治せるか、創元ライブラリ、1998

*-15:歯は宇宙の理をあらわし、心臓や肝臓がダイナミックに人間の心身の変化とともに機能や形態を変化させているように、一時もとどまる事なく変化し続けている。

*-16:志村則夫、平山康雄ら著;学校歯科保健と健康の創造、ユニテック出版、1995,

第6章.知情意は、人間存在そのものをあらわす

 人間の心身を健康ならしめるには、どうやら二つの意味でのいのちの働きについての考えを深め、それらを育む必要がありそうです。
 私たちのいのちはこの世限りのものだけではないことが、医学の面からも次第に明らかにされてきました。生命科学の第一人者であられる柳澤桂子氏の遺伝子に関する研究では、従来の遺伝子研究は極めて要素還元的になりすぎていたと反省されています。
 遺伝子の構造、形態を調べていき、その遺伝情報を解読してしまえば、まるで生命現象の全てが、決定されるかのような幻想にとらわれていたが、それは大きな誤りであったと述べられています。
 個々の遺伝子には、それぞれ歴史と物語性*-17があり、それが解らない限り、遺伝子が理解できたとはいえないと語られています。遺伝子をゲノムという概念にしたのは、一卵性の双生児が、全く同じ遺伝子でありながらも、二つにそれが分裂する時から、すでに違う個々の道を歩き始めるのだという事実を理解、強調するためであったようです。
 ゲノムは、生命現象の成長や発育を、ある一定の方向性に規定しているという従来の遺伝子の概念がすべてではなく、刻々と揺れ動き変化していく場の状況を認識し、外界から得た情報の整合性を問い、自らその場に合った情報をも創造すべく、姿形と機能を刻々と創出しているという概念なのです。生命の最小単位であるゲノムの自己組織化能力、自己創出性の研究が必要とされるのです。
私たちの研究は、人間にこの考え方を応用したのです。ゲノムのこの働き、いのちの能動性をマクロの視点で科学できないかということです。
いのちの能動性は、細胞、そして組織や臓器、さらに人間へと、ミクロ的にもマクロ的にも同じ働き、自然の法則性を示しているはずと考えたのです。おそらく宇宙もこの働きにより、分化と統合と創造が繰り返されているのでしょう。
さて私は「人間のいのちの能動性」にどのように迫ればよいのかと仮説を立てながら臨床研究を進めてきました。人間科学をベースにした人間観、人間理解から患者さんをわかろうとしたこともあります。人間学的なアプローチや実存的な人間観にも立って臨床をすすめてもきました。しかし、従来の考え方の中に、二つのいのちの在り方を同時に診断し、理解をすすめていく方法を見出せなかったのです。
いずれの人間理解の仕方においても、観測者側の視点を超えることはできませんでした。どうしても医者側の視点を抱いて患者さんを分析し診断してしまうのです。患者さんを科学の眼でない眼で見なければ、結局は全人的に迫れないという思いが、わかっているだけに、随分と模索を続けてきたのです。
私は、患者さんの全存在に迫る方法が明確にされないままで、患者さんを診ざるを得ませんでした。患者さんの思いを無視しても、身体的、心理的、社会的、倫理的に理解を進めていれば、患者さんの心身両面や生活行動から理解を進めたのだから、少しは患者さんを全人的にわかることであると自分自身に言い訳をしていたのです。しかしこの私の常識的な医者の態度には、多くの患者さんが泣かされ、悩まされていたのです。この医者の態度がうつ症状を引き起こさせたり、重症化させたり、不安神経症に陥らせたりしていると私にはわかっていたのです。
私は、医者の眼を横に置き、患者さんを悲しませないことを優先しようと考えるようになりました。そこで、患者さんの思いを無視できなくなったのです。
後に私の考え方を詳述しますが、患者さんの思いを大切にするということは、今ここでの患者さんの考え方(知)と感情(情)を大切にし、それをわかることであると考えたのです。この時私は、今まで患者さんの為にと、身体的、心理的、社会的、・・…と関わってきたのは、患者さんの寿命の意味でのいのち(病気)であり、永遠のいのち(人間としての患者さんそのもの)ではなかったと気づいたのです。
私は、今ここでの患者さんの考え方(知)、感じている(情)ことをわかれば、患者さんの永遠のいのちに迫れるのではと考えたのです。
 わたしたちは、受胎まもない7日の間に、約4億年の歴史を繰り広げるという解剖学の知識を学びました。そこで大きな感動を受けたのですが、発生学、解剖学の「知情意」に関する研究においても、同じような感動を覚えながら、その知識を学んだことを思い出します。
 それは受精後、心臓ができ血液が流れはじめる三週めの頃、たった一つの細胞(ゲノム)が次々に細胞分裂を繰り返しながら、大きく概念的に異なる3つの細胞群に分かれるという事実です。それらは外胚葉、内胚葉、中胚葉と呼ばれています。
 外胚葉は、脳や神経や皮膚となって分化、成長を遂げます。すなわち脳と神経と皮膚は、外界から情報を集める知的役割を担っているということです。
 内胚葉は、やがて肝臓や胃や腸や膵臓などに分化しそれぞれの機能を果たします。不安や恐怖が重なると胃潰瘍になることは、心身医学が示している事実です。怒りの感情は、肝臓と関係があるといわれますが、東洋医学では、怒りは肝にいるといって、怒りの感情と肝臓機能の関係が述べられています。私は、怒りの感情をコントロール出来ない時の身体生理的変化を後述のAMIで測定しましたが、その時、肝系の調和が乱れていることに気づきました。糖尿病は、遺伝的要因が強いといわれますが、その発生と治癒機転において、感情との関係を報告する研究者が増えてきました。このように内胚葉、内臓は感情そのものといえましょう。情の変化が内臓細胞のゲノムを揺るがし、細胞の形態や機能に変化を与えていると見えてきます。
 中胚葉は、分化をとげて、やがて大きな筋肉と骨になります。意志の強い人は、筋骨たくましいと一般的には思えるのです。最近の小中学生には、自分らしさ、自分の意志や志向性を発揮して、問題を解決していく能力が落ちています。意志が弱く、自分らしさを失うと、骨が弱くなり、ちょっと転んでも複雑骨折をすることにも関係しているのでしょう。
中胚葉、筋肉、骨は意志と関係するのです。
 これで、たった一つの細胞(ゲノム)が、外胚葉、内胚葉、中胚葉と分化をとげ成長するわけですが、それぞれが、身体のことであり心のことでもあると理解できます。人間のいのちが知情意となって、心身にちりばめられていると理解できたのです。そして、知情意に統合が生じれば、人間全体にまとまりが創造されたということになると考えたのです。
知情意をわかることは、私の全人的医療の考え方の心臓の部分です。
そしてそれに調和を与えるべく、意識的に対話をすすめていくことは、いのちの能動性(自然治癒力)に、理性的に意識的に迫り、それを育てることを意味するのです。このプロセスをくり返し行うことで、いのちの能動性のポテンシャルが強化されていくのです。倫理性が深まり、人格が統合されて、人間的成長が生じるのです。

*-17: 柳澤桂子著:生命の奇跡、PHP新書

第7章.健康創造へのプロセス

 さて健康創造学の人間観が明らかにされ、いのちの二つの意味と意義が示されて、具体的にどのようなアプローチを展開すれば、人々に健康が創造されていくのかを述べる準備が整いました。
 私たちは、人々が外界とコンタクトをとる(認識する)時の意識の在り方、対話の在り方に、独自の分析法、視点を拓いたのです。自然界に存在するものは、すべて関係の中に刻々とその機能、姿形を変化させているというのが真実の在り方(真如)であると述べてきました。「人間対外界」のコミュニケーション、このダイナミックス(複雑系)を如何に科学するかが問われたのです。いのちある限り一瞬たりとも、止まることのない外界とのコミュニケーションの中に、普遍的な法則性、秩序を探らねばなりません。
 私たちは、臨床研究を通じて、「人間のいのち」対「自我、自然、社会、他者、……」のダイナミックスの中に普遍的な秩序を発見したのです。
 人々が外界と出会うと、まず個々人の主観的なかかわり方で、外界を認識し、コミュニケーションを展開します。私たちは、その時の個々人の思い、考え方()、感じていること()、希望や志向性()を大切にして、それぞれの思いを「知・情・意」に分析し、その間の関係をまず明らかにします。
 例えば、自分の考え方(知)に縛られ、その考え方で外界とコンタクトを取るたびに、不安や恐怖の感情(情)のままでいなければならないとか、また不安や嫉妬や怒りの感情(情)に流されていれば、これらの感情が、自分が外界とコンタクトをとる時の自分の物の見方、考え方、行動、価値観 (知)から生じていて、それに揺らぎを与えられていない状態であるということに気づくことなどです。このように知と情の間のバランスが崩れていると、いつまでも心身が不適応な状況で、外界とコンタクトを取り続けることになるということを明らかにします。
 人間には、このように主観的な意識状態(知・情・意の不調和)を分析し、その主観的意識(自我)を意図的に修正し、それに統合性を与えるべく、普遍的意識(自己:本来の私)を刻々と創造させる能力(いのちの能動性)があります。普遍的意識は、主観的意識(自我)に縛られ、流されている「おのれの姿:知・情・意」が外界に不適応で、なんとなく心地がわるいと感じれば、自らの意識が心地よさを求めて、自ずと創造されてくる意識状態(知・情・意が調和した状態)のことでもあると理解できます。これは倫理、道徳的な視点から自我を評価している意識の在り方ではありません。自分の心身に心地よさを与えるように、自らが今ここでの自分(自己、自我)の在り方を調整することです(
臨床例★A)。
 不適応であった知情意が段々と統合され、知情意がまとまり、人間の心身が適応状態へと変化していく様を、電気生理学的に評価しています。これは適応の生理機能のポテンシャル(エントロピーが小さくなっていく過程)を、本山博士の考案したAMI機器*-18を用いて測定した新しい方法です。自分自身の決断で、日常の生活行為を通じて、知情意の統合をすすめていった結果が、電気生理学的に示されて、人々はさらに自分の行為に、確信と責任を覚えるのです。
今ここでの思い、知情意が統合されればされるほど、私たちの心身は、外界とこの上ない心地よさでコミュニケーションを展開していることになります。これはいのちの能動性が最大限に発揮されている状態です。ここに健康が創造されてくるのです。全き人間(存在)が外界とピッタリとコミットメントしているということです。この時、人間(患者さんも医者も)はあらゆる出会いが必然であると感じるのです。出会いに必然を見る時、人間に感謝と至福のこころが生じます。対話を通じて、出会いに必然性を感じる体験を積み重ねていけば、そこに「健康な人格」が育つのだと考えています。

*-18: AMIによる適応能力の評価:
AMIとはApparatus for measuring the functioning of the Meridians and corresponding Internal organsの略称であり、経絡−臓器機能測定器、あるいは体液−自律神経機能測定器と呼ばれ、本山により開発された装置です。この装置は、全身を流れる14の経絡の電流の流れやすさ測定し、各経絡間の値の比較をすることにより、生体の全身的機能バランスを評価する機械です。知情意に統合性が認められるにつれ、全身の生理機能が強化され、バランスが整ってくる経過が評価できます。健康度を評価する新しい方法であると考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第8章.第三の信仰:対話で人は生まれ変わる

 釈迦とキリストは、人類の悩みにこたえるべく、この世界に現われた偉人であると思います。愛ある人、キリストの「自分を愛するかのごとく隣人を愛せよ」という言葉をそのまま素直に受け止めれば、このキリストの求める人間像は、私がすでに述べてきた「いのちの能動性を考えに入れて、日々のセルフケアーを展開すれば、自分にやさしくすることと、他者にやさしくあることが同じである」との思いを深めた人間像そのものであると思えるのです。
 釈迦は、四百四病に悩む人類を救済すべく、さまざまな考え方を述べていますが、その中で、釈迦の考えをあらわす象徴的な言葉は、「煩悩」であるといえます。四百四病も、この世の諸悪の根元も、この煩悩から生じると語られています。
 かつて私は、大森曹玄老師の心眼という文章に出会いました。そこには「観の目、というのは、深くものの実相、真相を見破るマナコ、物の内面に秘められた本質を見抜く目である」と述べられていたのです。
 それに対して見の眼というのは、科学的知識というか、物の表面を見る眼、物の表面に現われた現象を見る眼のことです。先述の現代医学の人間観でいえば、いのちの能動性が現象した結果、その身体的、心理的、社会的、倫理的な側面を見ている姿にあたります。
 「見えざるものを観るには、観の目によらねばならないが、観の目を開くことは容易ではない。古来から皆苦労をしているところである」と述べられ、観の目を育てなければ、真の人(煩悩にとらわれずに、真相をわかる人)には成り難きと述べられています。
 観の目でわかるのは、いのちの能動性のことでしょう。私たちは、ここから人間の心理も身体も、文化もすべて生じてきているのだと考えるのです。
 観の目をイメージできることとは、本質を観て、現象(煩悩)に左右されない意識状態が創造される準備が出来たことを意味します。過去の人々が、座禅、ヨーガ、静坐をはじめとして、種々の宗教的な行により、煩悩を断ち切ろうと努力してきたのは、本質に迫らなければ、心が落ち着かなかったからでしょう。大森曹玄老師は、「行の一つの意味は、徹底した自己否定である。自己否定が可能となって、はじめて物の本質、観の目で自分自身や他者や地球を成り立たせている働き(神、仏)を理解できる」と述べられているのです。
 勿論キリストと釈迦の精神をこのように、「愛深き人と煩悩を超えるとき」の一言に集約し、語ることは不遜すぎるとは思うのですが、あえて大胆にこの一言に限って語れば、私たちが、思索し、科学的に求めてきた「いのちの能動性」を育てるプロセスは、この二人が求めてきた本質的な精神に匹敵するものと自負しているのです。
 現代人には、もはや宗教や哲学を理解し、それを生活に生かそうというこころの余裕?こころの揺らぎがありません。こころに揺らぎを失うとき、そこに広い意味での心身症の病理を見てきました。私は、現代人を見て、一億2千万人すべて、私も含めて「科学信仰」病と診断し憚らないのです。現代人は、宗教という言葉に、カルト的なイメージを抱き、心理、生理的に排除したい気持ちになっているようですが、むしろ私には、現代人こそが、己が思いに、「いのちの揺らぎを失った科学信仰者である」とのレッテルを貼るべきではないのかと思うのです。
 現代の科学信奉者の見る眼に、観る目を養うには、前述のキリストや釈迦の精神が、極めて必要なことであると思います。しかし現代人は「科学的」でなければ、聞く耳がありません。
 釈迦もキリストも、人類を「人間的に成長させる」ための宗教的なアプローチを明らかにした偉人であると考えています。私は、科学の言葉で、彼らと同じ思いを、現代人に伝えていると考えているのです。それを大胆にも、「第三の信仰」と呼んでみようと思うのです。私たちが考えてきた健康創造へのプロセスを、釈迦やキリストに代わって、現代人を救う第三の信仰(対話で人は生まれ変わる)として、世の人々に問いたいのです。
 私たちは、先述の健康創造のプロセスを患者さんとの対話に応用しています。対話を通じて、日常の生活に臨む患者さんの意識の在り方、知情意を「自己」、「自我」、「心地よさ」などの視点から明らかにしていくのです(「対話の実習」;後述)。
 普遍的な視点(自己)とは、外界と固定した関係しか生じさせない自我意識と異なる意識の在り方、存在(ユングの意味する自己とか仏教的深層心理の唯識などに近い概念)のことであると述べてきました。対話のたびに、この普遍的意識の存在をイメージして、知情意のバランスを、意識的に揺るがせば、いかようにも自らの意識の在り方を変化させ、生活行動や人間関係を変化させることが可能となります。
 しかし現代人の多くは、管理、整備された環境の中で、学習により、きわめて画一化された、習慣化した意識(現実的自己:近代的自我)の状態で、対他者、対自然、対社会と対話をすることに慣れてしまい、自らの固定された意識状態に揺らぎを与える(自我は、実存しているのではなく、観念に過ぎないと認識する)ことに不安と苦痛を感じるこころの状態にあります。この不安と苦痛の病理は、現代社会の政治、経済、教育、医療、福祉などなどの在り方、構造、価値観から生じていると観ることが出来るでしょう。
私たちの臨床研究では、自我意識を固定的実体として、とらえてしまうこころの状態が、諸悪の根元であり、あらゆる疾病の引き金になっているとの分析がなされたのです。これは、まさに釈迦の考え方の一つです。また現代人の様々な悲劇も、そこから生じているとの考え方を支持する疫学的研究も重ねてきたのです。したがって、疾病の種類の如何にかかわらず、非特異的に、患者さんや一般の人々の固定した考え方(知)や感情(情)をわかり、これらに揺らぎを与える方法が、癒しの方法であり、健康創造のプロセスであると結論づけることが出来たのです。知と情と意が統合されているということは、人格が統合されていることを意味します。釈迦やキリストが求めてきた「人間の成長」です。

第9章.私の全人的医療:心身医学の常識を超えるとき

 現代医学のサイエンスの眼は、「見る眼」であったということです。いのちの能動性から現象された結果ばかりを見てきた学問であり、いのちの能動性そのものには、迫ることが出来なかったのです。現代医学は、その存在すら認めようとしてこなかったともいえるでしょう。このサイエンスの眼だけでは、健康の創造は、不可能であるとの考え方を述べてきました。
 眼に見えない存在に迫る科学は、今日まで医学の分野で遅れていたのでしょう。哲学、宗教、倫理学の分野の問題だとされてきました。
要素還元的な科学のもとで、今日まで矛盾なく問題解決を図ってきた科学者に、いのちの能動性を育てるといった医療、非特異的に人間に迫るという考え方は、なかなか理解しがたいようです。
現代医学は、人間を全人的にわかる必要性を見失うほど、効率的に疾病を予防することに成果を上げてきたのだと思います。また新しい治療の知識と技術の開発や応用に成果を上げ、寿命を延ばすことに威力を発揮してきたと考えられます。局所の臓器や組織の健全さを達成すれば、それでよしとする思考に慣れ親しんでしまって、非特異的に人間をわかるという方法が、病気を診ているのではなく、人間を観るという視点から出されたものであり、この観方がいかに大切であるかを理解しようとしてくれません。
 今から30年程前のことですが、私は、東北地方の無歯科医村を尋ねて、その当時の小中学生の口腔内状態を診る機会に幾度となく巡り合ってきました。彼らの口腔内の状態は惨澹たるものでしたので、フッ素を使ったり、甘い飲食物の摂取を徹底的に制限したりして、虫歯予防に明け暮れました。そして今日、虫歯を予防することには異論はないのですが、その特異的な疾病予防に明け暮れしている間に、小中学生の個性や自立性を奪い、適応の生理やいのちの能動性を減弱させていたのでは、と反省するようになったのです。昔の私は、疾病の予防と治療にいのちを燃やし、それが使命であるとすら考えていました。しかし現在は、他律的に、特異的に小、中学生に関わり、虫歯をいくら予防しても、彼らの健康度を強化できる普遍的な戦略を示しえないなら、それは危険なことかもしれないと考えるようになったのです*-19
 私は、こうした過去の経験の上で、特異的に虫歯や歯周病を予防したり、8020運動の達成(80才まで、健全な歯を20本残しましょうという考えと戦略)に夢中になっている間に、健康は逃げてしまうかもしれませんよ、と現代の科学者に伝えているのですが、私の考えを理解してくれないのです。ときには、感情的に敵意を露わにされて「君は歯医者か?自分の役割をしっかりと認識しているのか?」と私に挑戦される方もあります。
 疾病の予防やあるべき生活スタイルを追いかけるあまり、自立性を失ったり、適応の生理機能を高める暮らし(健康の創造)が犠牲にされているという簡単な理屈が見えなくなっているのが現代といえます。一つの科学的事実に縛られ、人間全体が観えない状況に気づかれていないのです。
 心身医学の研究をすすめてこられた先生方には、「全人的医療」に関心が深いはずです。なぜなら全人的に迫らなければ、ほとんどの現代病や広い意味での心身症は、治癒に向わないことを身をもって体験されているからだと思います。しかし不思議なことにこれらの先生方にも私の考え方は理解されない時が多かったのです。
 このような先生方は、人間を身体の面から研究し、そこに然るべき身体的な原因が見いだされない時、さらに徹底的に身体器質的異常の「ある、なし」を診断すべきと考えています。
これは心身医学のすすめる常識的な診断法で、これに「Negative Diagnosis」との概念を与えています。そして徹底的な検査にもかかわらず、身体的異常が確認できないと、今度は、積極的に精神的、心理的要因や人間関係や生活スタイルに分析の手を延ばして、それらと疾病や健康の関係を探りなさいということを認めた姿勢、この心理学的なアプローチ、診断法には「Positive Diagnosis」という概念を与えています。
私はこの心身医学の常識的な診断のプロセスこそが危険であると述べてきました。この診断プロセスは、患者さんを人間としてわかろうとしているのではありません。病気を身体的、心理的、社会的、倫理的、行動的にわかろうとしているだけであると思うのです。人間の各側面が広く理解できても、これは私の考える全人的医療とは異なるのです。
人間の各側面をわかることが、全人的医療であると思い込んでいる研究者、臨床医が多いのですが、これでは、人間に特異的にしか迫れません。
 いのちの能動性を考えに入れれば、身体的に異常が「ある、なし」と診断する考え方、態度、そのことが、赦されなくなるのです。「患者さんの思いのあるところ必ずや身体、生理的現象も心理的現象も在り*-20」と考えるのです。ここに私の全人的医療の本質があります。
 また「リエゾン」という考え方がありますが、これは歯科医や外科医や内科医や精神科医などが、それぞれの専門分野のサイエンスを集めて、問題解決、疾病の治療に当たろうというものです。確かにいのちの能動性を育てるとか、実存に迫る医学は、今日まで科学的に明らかにされてきていないので、このように寄せ木細工のような医療も許されるのかもしれません。しかし私には「リエゾン」は、人間不在の医療を象徴するようで、患者さんにすまないと思うし、私には悲しく感じられます。
 私は、東大の心療内科教授であられた故石川中先生から、常識的な心身医学を学び、心身医学の観念的アプローチ法の限界を目の当りにしてきました。石川先生の全人的医療は、先生が出版された心身医学の数々の著書に著わされた考え方、その観念の中に見ることはできませんでしたが、先生の全人的な医療は、先生の全人格が、患者さんに伝わったときに実現されていると理解できたのです。石川先生に出会って、永く患っていた患者さんのこころや表情に輝きが生じます。そこから癒しが始まると観えたのです。先生も、その事は気づいておられましたが、自分の人格(バリントのいう医師の態度:医師という薬、治療的自我)が癒しを生むなどとは、科学者である以上軽々しくは口に出せません。私はこのような先生の姿に接して、いつの日にか、この「人格を科学したい」と考えてきたのです。
 それが「患者さんの知情意をわかり、それに統合性を与える対話」−対話を通じて人は生まれ変わる−という方法であったのです。

*-19:山梨県、三富村小学校での歯科保健教育:子供の生活をわかり、自立性を育てるための個人カルテ

*-20:市岡正道著:我あり、即ち我味わう(ニューフレーバー、p2-3,1996)

第10章.常識をぶっ飛ばせ!
        リアリテイーが見えてくる

 私は患者さんを癒すのは、心身医学の常識的アプローチ法にあるのではなく、患者さんの現実にどの様に迫るのかによると考えたのです。
 私のもとを訪れた患者さんは、こう訴えます。
 「私は『自分には確かに口臭があり、他人に迷惑をかけているばかりではなく、そのことで人と話せないのが辛いのです』と二年間もいい続けてきたのに、先生はそれをわかって下さらないのです。薦められるままに訪ね歩いてきた歯科、内科、耳鼻科、精神科、いずれの先生も私の気持ちを聞いて下さらず、時にはいきなり口を診て、口臭無しと診断されたこともありました。またある時は話を聞いて下さる先生もいて、今度こそ治して頂けると期待していたら、三度目の治療のときに、心理的要因かもしれません、この心理テストを受けて下さいと言われたこともありました。結局、私を精神病と決めつけるのです。確かに口に原因があるという私の言い分をわかろうとしてくれないのです。それを無視され続けてきました。
 ある大学では、歯科と精神科の先生、二人で私を診て下さいました。最初の二回の診療は、優しい言葉で話に応じてくれていましたが、『あなたの病気は自己臭妄想であるから精神科の診断と治療を要する』と診断されたときから、先生の態度は豹変し、『何度いったら分かるのか、私は精神科医ですよ。歯科の先生と一緒に診て、口腔の問題でないと診断したのです、それに何故従わないのか』と恐ろしいほどの様相で言われたのです。言われた言葉は今でも耳に釘を打ち込まれたような感じの痛みとともに、私の脳裏に焼き付いています。その当時のこころの痛みがよみがえると胸が締めつけられるのです。」
 自臭症に限らず、顎関節症や舌痛症や義歯不適合症の患者さんからも、このような訴え、「私の現在の症状は、口に原因があるのに、それをわかって下さらず、結局は身体的には異常がありません、入れ歯にも異常がありません、精神、心理的要因でしょうといわれてしまう無念さ」について、私は、何人の患者さんからこのような思いを聞かされたことでしょう。
こんな臨床を20年間も続けてきて、私は、患者さんの意識のあるところ、それに見合った身体的現象も心理的現象も必ずあるとの考えに至ったのです。そしてそのことがすべてでもあるように思えるのです。
患者さんをありのままにわかるには、身体だ、心理だ、ストレスだ、生活スタイルだと言っていてはいけないと思えたのです。たまたま現在の医学では、その身体的現象がとらえられないだけであるのに、心身医学の常識は、Negative Diagnosisという概念を当ててしまい、それを確認できないと、患者さんの思い(知情意)を無視して、精神・心理的要因であると決めつけてしまうのです。
 こんな時、「リエゾンだ、Negative Diagnosisだ、Positive Diagnosisだ」と言って、患者さんの思いをわかろうとしない態度は、やはり現代の常識的な観念的な、疾病中心の人間観、健康観から生じるのだと思うのです。
 私は、何度も何度も患者さんの思いを無視して、常識的な心身医学的アプローチ法に縛られた態度で、患者さんに酷い仕打ちをしてきましたからよくわかるのです。常識的なアプローチ法は、勿論大切にしなければなりませんが、患者さんの思いを、疾病や症状の如何に関わらず、わからなければ、この常識が、患者さんの心身を傷つけるバタフライナイフにもなるということです。
疾病の如何に関わらず、「患者さんには非特異的に迫り、患者さんの知情意が、現代医学の特異的な医療に対してどのような意味を抱いているのかをわかるように対話」をすすめれば、そこから患者さんの自立が育つし、疾病が非特異的に癒されることを体験するでしょう。これが私の全人的医療であり、ここに患者と医師の双方に健康的な人格が誕生してくるのです。
 医師が、患者さんの知情意をわかろうとして患者さんに関わるとき、医師も同時に自らの知情意をわかろうとします。なぜなら患者さんの思いをわからないこころの状態で、自分の心身医学の考え方や心理学的な診断姿勢(医師の知)を押しつけ、患者さんを傷つけていないかと振り返ることは必須なことであるからです。患者さんと医師との考え方が、合っていないのに、その考え方を押しつけるわけにはいきません。それを無理に通そうとすれば、怒りの感情を抱き、その姿を患者さんに晒すことでしょう。よく臨床でそんな姿を目にします。私はそんな医療は、医者にとっても患者さんにとっても不毛であると感じるのです。
 いのちの能動性をイメージし、医師も患者さんも対話の中から新しい心身が創造されるのだとの考えのもとに医療を展開したいものだと思うのです。気づいてみれば、こんなハッピーな出会いができるなんて、医療は人間(医者と患者の双方)に至福の心を育てるのだと思えるのです。
 私は私の考える全人的医療を日本はおろか、全世界に伝えたいと思っています。私たちは、人間のいのちの能動性、実存に哲学的、宗教的、観念的に迫ったのではありません。いのちの能動性をサイエンスしたのです。人間に特異的に迫りながら、同時に非特異的に迫る方法を開発し、ここに於いて、寄せ木細工ではない、真の全人的医療が可能となったのです。
 どうか、疾病の予防と治療を中心にした医学教育や医療だけではなく、また自分が立っている全人的医療の人間観は、如何なるものであるのかを見極めた上で、私たちの主張する全人的医療や健康創造学に耳を傾け、批評を下して頂きたいのです。
 過去の自分の考え方(知)から抜け出したり、情に流されない意識状態を創造できるのは、人間に「いのちの能動性」が在るからです。私たちは、その働きが最大となる意識状態を知と情と意から評価しようとしたのです。この普遍的な視点(知・情・意の視点から自我を見つめる存在=本当の自分、実在的自己)を育てない限り、医学も教育も政治も、経済も、生活すべてがままごと、リアリティーを見失った虚像(世間虚仮)になってしまいます。現代の医学がこの視点を欠いていたから、疾病を予防し治療するサイエンスがこれほど進歩しても、医療統計にみるように人類は次々に新しい疾病に襲われているのではないでしょうか。知情意の意識状態を統合させるプロセスが、人格の統合を生み、いのちの能動性を高めることになるのです。
 今、先進国では確実に、人間性の解体化地球環境の破壊が侵攻していますが、現代医学は、極めてパラドキシカルな実態に遭遇しているといえるでしょう。なぜなら先進国が負わされたこれら二つの由々しき課題、人間性の解体化と地球環境の破壊は、現代医学の示す人間観や健康観やサイエンスの在り方が問われるかたちで生じてきたのであると認識するからです。
 そして現代医学の戦略で、この問題を解決していこうと関われば関わるほど、皮肉なことに、意図に反して、ますます人間性が解体化される方向に進むと考えられるからです。
 恥の上塗りという言葉がありますが、もはや疾病の予防と治療だけを目標にした戦略や人間観だけで、患者さんや地域住民に関わったり、現代の種々の問題の解決を図ろうとすることは許されない時代を迎えていると思うのです。いのちの能動性を配慮していない現代医学の人間観は、欠陥人間を創造し、地球環境を破壊するためのものだったとさえ観えてくるはずです。
 しかし、疾病の予防と治療においての現代医学の役割は、これからも益々大切にされなければならないと考えます。このサイエンス、人間観に欠陥ありとはいえ、はずすわけには参りません。なぜなら人々の寿命(いのち)への熱き執着は、昔からの人類の夢、不老長寿への憧れであるからです。この夢を一歩でも現実に近づけるため、永遠のいのち、いのちの能動性を育てる医学、医療が必要とされる時代を迎えたと考えたいのです。これまでの医学教育や歯学教育、医療に、倫理性を与え、魂を吹き込むための健康創造学(全人的医療)が、21世紀には必要とされているということを強調したいのです*-21
21世紀の医学、歯学、医療を考えるとき、その基本的骨組みは、健康創造学(ヘルスクリエーション)、ライフスタイル学(ヘルスプロモーション)、疾病の予防学、疾病の治療学となるでしょう。
たこの足の如き分散された現在の医科大学、歯科大学の機構を、これら概念を異にする四つの部門に分けて、スリムにしてみたら如何でしょうか。このような考えを示せば、医学生、歯学生ばかりではなく、患者さんや一般の人々にも、医学や医療の向うべき姿が明瞭になると思うのです。21世紀の医学、歯学教育や研究や臨床の在り方を真剣に変革しようと思うなら、観念的に機構を変革することも重要ですが、今求められているのは機構というより、教育者として、研究者として、臨床家としての資質の向上であるのだと思うのです。健康創造学は、それに答える格好な学問であると考えています。

*-21:志村則夫著:健康な人格の実現が21世紀の医療を救う、季刊でんぱつNo.102、p12,1996)。

第11章.心臓の神経はつながなくてもよいのか?
           :知と情を分離するなかれ

 さてここでは、臓器移植をしてまで寿命を延ばすのが倫理的かどうかの問題を明らかにしながら、倫理教育のあるべき姿を、知情意をわかり、それを育てるといった視点から考えてみたいと思います。
 また二つのいのちの意味を統合的に理解を進めるところに、私たちの考える全人的医療があり、健康創造の医療が実現されてくるとの見解をさらに明確にします。
 私たちは、いのちの二つの意味をみてきました。寿命の意味だけのいのちを見てなされた医療やセルフケアーは、いのちの能動性の働き、すなわち人間の本質を無視しているということになり、非人間的です。全人的ではありません。したがって、現代なされている医療やセルフケアーは、生物機械的な人間観のもとでなされていますから、倫理から逸脱していると問われなければなりません。
 近年、医学、歯学教育で倫理教育が大切であるといわれますが、その倫理教育を進めるべき教育者が、依然として現代医学の疾病の予防と治療を主眼にしてきた人間観のもとで、あるべき論の倫理教育を進めている限り、その教育からは倫理性の高い学生が育つどころか、反ってマイナスの結果を引き出しかねないと危惧しているのです。
 私は前述のいのちの二つの意味をわかりそれを配慮した、研究や教育や臨床を進めていくところに、自ずと倫理性が育ってくるとの考え方を明らかにしてきました*-22
 さて心臓移植やその他の臓器移植は、倫理に反する行為であるのか、肯定さるべき行為であるのか?その判断の基準にすべき考え方はないのでしょうか?
 現状は、大学の教授達や知識人が集まって、それぞれの学問領域の立場からの見解を示し、充分な審議を尽くし、倫理委員会なるものを設けて、最後は多数決で決定されればそれで仕方無しとしているように映るのです。私は、これでは何か欠けている、誰しもが、納得できる理屈があるはず、それを示さなければと思い続けてきたのです。
 ことを明確にするために、決めつけた見方であると充分承知の上で、審議会の見解を分析すれば、おおよそ次の三つの姿勢になるでしょう。いのちに「寿命の意味」しか見ようとしてこなかった医学系の研究者達には、臓器移植が当たり前とみえ、反対している人々の気が知れないといった態度です。倫理学、心理学、社会学、文化人類学などを専門にしてこられた研究者達は、臓器移植にどうにか納得のいくような倫理性を自分の学問を背景にして構築しようとしている態度に映ります。宗教学や哲学を専門にされてきた学者には、いのちの能動性、実存、魂を人間に観じて、臓器移植は、人間生物医学の極みなりとして、真向こうから臓器移植に反対の態度です。
 一般の人々は、これら学識者達の様々な考え方や態度に接して、どの見解に従えばよいのか判断に苦しみます。現代の社会を生きる私たちにしてみれば、もし自分や子供が、先天的に心臓などの臓器に奇形があり、他人の臓器と交換でき、寿命が延びるとなれば、いのちの能動性から観て、倫理に反するとわかっていても、寿命が少しでも長引くと思えば、それを求める思いを容易には捨てられません。
 このような時、私は、いつも、前述の解剖学者、三木成夫先生の講義を思い出しているのです。私たちが解剖学を学んでいた時に、札幌で日本初の心臓移植がなされました。三木先生は、ある友人の外科医に心臓を移植する時に、心臓を支配しているかなりの数の神経繊維は、どのように繋ぐのかと質問をされたというのです。一刻を争うような手術であるから、いちいち神経繊維など繋いでいる暇がない。心臓に繋がっているところの大きな血管を繋ぐだけで精一杯であるとの答えであったそうです。
 世界で初めて心臓手術に成功したのは、南アフリカであり、その評価は非常に高いものでした。「輝かしい医学の勝利」というタイトルで情報が世界を駆け巡ったのです。その最初の手術を受けた患者さんが初めてゴルフをしたとき、心臓は一定のリズムで拍動していて、心臓には異常がなかったという報道がなされていたとのことでした。
 三木先生は、この心臓に異常がなかったとの報告を聞いて、心臓移植のとき、心臓と関係している神経を一本も繋がないのですから、坂道を歩いても、心臓はドキドキするわけではなく、パターがはたして、うまく入るか否かとの緊張したこころなどを反映するわけでもないということを意味しているにすぎないと考えられたのです。
 まさに無神経な心臓は、恋愛しても胸がキューンと熱くなることもないということです。愛や喜びや感動や嫉妬や恐れの「心、情」を司る心臓、人間が人間として認められるこの不可欠の心の蔵、心臓が、寿命が延びるからといって、もう一つのいのちから奪い取って、他者のそれに移すという行為が、医療の真に向う姿でしょうか?と問わずにはいられなかったに違いありません。先生の講義からそのように感じました。先生は、「永遠のいのちの姿」に強くひかれ、夢を抱いて解剖学の研究と教育をすすめてこられた研究者であったからだと思うのです。
 思いという文字は、頭を象徴する象形文字から生まれてきた部分の「田」と、心臓の形から生じた象形文字「心」から成り立っています*-23
人間をわかるには、人の思いに迫るべき、とかねてから私は考えてきましたので、頭と心臓を分けて理解するわけにはいきません。理性や合理性を象徴する頭、知だけで人間に迫っても、非合理の価値、情の世界である心臓を失っては、人間は、人間ではなくなるということを意味すると考えてきたのです。私たちの考える健康創造学は、今ここでの意識、個人の考え方(知)をわかり、その時の感情(情)をわかり、意図(意)をわかり、それらの知情意に調和と統合を与えることで、人間としてのあるまとまり(健康な人格)が得られると考えてきたのです。
健康な人格とは、外界との対話において、知情意の調和を最大にさせようと意識を働かせる、その開かれた意識のことです。いのちの状態が最大限に機能できる心身状態であるといえます。身体に現象した結果を評価すれば、自律神経系、ホルモン系、免疫系などの適応の生理機能が強化されているといえます。私たちは、この調和し強化された生理的状態を評価するために、本山先生が考案した電気生理学的方法(AMI)を応用しています。AMIで評価されるのは、身体に揺らぎを与えるいのちの能動性、潜在能力です。知情意の調和度が高まるにつれ、AMIの数値にも上昇と調和が得られます。ここに健康をみた私たちは、知と情と意を切り離しては、人間を観たことにはならないと考えたのです。
 対話を通じて、知情意にまとまりが生じ、自立のプロセスも理解され、症状が癒され、日々の生活に、生きるはりを持ち、人間的成長のプロセスを歩み始めた患者さん、その人達のAMIによる、健康度の評価についての結果を、下の図に示しました*-24
 もし心臓移植をした人に、私たちの健康創造のプロセスを処方したら、果たしてどのような結果が、AMIに現われるのでしょうか?
 脳には、知の情報を司る大脳皮質、情を司る感情脳があるといわれますが、勿論脳はこのように分離して機能を果たしているわけではないはずです。が、臨床的には、失感情症といわれる病理があります。乳幼児期の育児環境が、感情を育てるには、あまりにも過酷であり、殺伐としたものだたのであろうと考えられています。心臓の神経を繋がなければ、感情脳が萎縮するに違いないと私は考えてみたりするのです。外界から刺激を受けて、知も情も揺るがせなければ、健康な人格が育たないと思うのです。

*-22:医師と患者の実践的コミュニケーション、月刊保団連、p15-33、N0.555、1997

*-23:思いは、頭(知)と心臓(情)を意味する。

*-24:日常の生活行為において、知情意を統合させることで、自立を育て、隣人愛を深めた患者さんの適応の生理機能の調和と上昇の経緯をAMIで評価したもの(A)と不規則な生活リズムを規則的に変容できた患者さんのAMIの結果(B)です。

A:術前と術後(6ヶ月後)   B:初診時のAMI…13日後…・26日後

第12章.いのちの能動性を育てることが、心の教育です

 最近の社会情勢をみると、まさに人間性の解体化が一気に押し寄せてきたとの感をおぼえるのは、私だけでしょうか?。自分の周囲の人々の発言や行動をつぶさに見ていると、「あ、この人オカシイ」、と感じる人があふれているのです。あまりの多さに、自分が「オカシイ」のかと疑ってみたりするのですが、ここに述べてきた知情意の統合性という基準を自らにあてはめてみると、どうやら正常であると自己判断をしている自分がいます。
現代社会が狂っているから、現代人のほとんどの人が狂っていて、少数派の自分が、オカシイと思われるだけなのだと慰めてみたりもします。 
私は、年に数回の講演の機会を頂きますが、私の考え方は、私が所属しているいわゆる「アカデミック?」な価値の世界では理解され難いなと感じてきました。
 一般の人々を対象にした時は、ほとんどの方が、感激してくれるのです。感激しないまでも、君の言うことは「理」にかなっていると激励されるのです。トラの威を借りて、一言付け加えさせて頂けば、最近、「大河の一滴」という五木寛之氏の本が、ベストセラーになりました。五木氏の考え方と私の健康観は、どうやら同じであると私は思ったのです。五木氏に直接伺っていないので、不遜なことであるかもしれませんが、五木氏のこのベストセラーの本に私の考え方を紹介して下っていたので、一般の常識は、私の健康観を正しいのだと判断してくれていると思いたいのです。
どうやら、私は、知の巨頭?に向って、或いは、彼らが前頭葉や右脳や感情脳を豊かに使っていないという意味で「知の小頭?」というべきかもしれませんが、大学をはじめとして人の上に立って、知識、技術、倫理、道徳などを上意下達的に伝える態度で人々に関わっている職種の人々、世に先生と呼ばれる人々に対して、「アカデミック」な価値に縛られている態度は、人格不全(知に縛られて、ものの本質が理解できないこころの状態)を引き起こす、いや既に引き起こしているのであると暗に伝えてきたように思うのです。ほのめかすと言うより、挑戦的に自分の言い分を伝えようとしてきたと思います。これは「知情意という基準」からものを語れば、ドグマには陥らないと臨床経験から学んだ自信から生まれた態度です。しかし聞く側が、私の考え方をドグマであると決め付けて臨まれた場合は、聞く人の感情を苛立てる結果になってしまうと思うのです。聞く人が、自らの論理がどのような背景から生じてきたのかを私のそれと比較しながら討論してくだされば、私の論理がドグマであると挑戦し、対話をしている内に、やがてわかり合える態度になるはずです。私は私の論理がドグマでもあり、ドグマでもないと言うことを伝えたいだけなのです。ですから相手の感情を苛立てても討論を好むのです。対話をしなければ、私の考え方は、伝わり難いからです。
 私の周囲には、自分の知が常識的であるから、悪いはずがないと信じきって、行動してしまう人々があまりにも多いと思うのです。
 先進国、アメリカの情報をみると、薬による副作用で死亡される人は、年間約36万人と言われ、これは死亡統計の第四位になったということです。耐性菌を生じさせたり、常在菌にまで襲われる貧弱な身体になってしまった現代人をみると、現代の医学は、これからどのようなパラダイム転換を図るのでしょうか。勿論病気の予防と治療の医学、医療は益々発展すべきであると思います。この医学に、健康創造学、全人的医療を定着させ、育て発展させていくには、少なくも前述の「科学の眼」だけで、事を始めてもらっては困ると思うのです。五木氏のような、文学者、広い人間観を育てておられる方々や一般の市民の方々に、今後の医学教育や小中学校の心を育てる教育に参加して頂かなければなりません。
 こうした状況の中で、文部省は、心の教育の在り方についての中間報告をしました。内容は以下の如くです。
 中教審が、まとめた「幼児期からの心の教育の在り方について」の中間報告の要旨をみると、
 第一章に、(1)生きる力を身につけ、新しい時代を切り開く積極的な心を育てよう。(2)正義感・倫理観や思いやりの心など豊かな人間性をはぐくもう。(3)社会全体のモラルの低下を問い直そう。……個人の利害得失を優先、他者への責任転嫁、物質的価値や快楽の優先、夢や目標への努力の軽視など、大人社会のモラル低下を大人自身が率先して是正する。
(注:これらの事項は、昔からいわれてきた事ではないのでしょうか?いまさら何故?と思われている人々も多いのではないでしょうか?現代医学の示してきた人間観で、教育、対話を進めていては、いつまでたってもこれらの事項は解決はされないであろうと私は考えています。いのちの能動性を育てるといった視点での人間観、健康観を背景にして、これらの内容を実現して頂きたいと切に願うのです。)
      略
第四章心を育てる場としての学校を見直そう。(1)しつけが欠けている場合は親に働きかける。体験活動を取り入れる。預かり保育の充実など子育て支援を推進する。(2)小学校以降の学校教育の役割を見直そう。権利だけではなく義務、自己責任について指導する。道徳の時間数確保など道徳教育を見直そう。いじめを許さないよう指導を徹底。「援助交際」は恥ずべき行為であることを気づかせる。ゆとりある学校生活で子供たちの自己実現を図ろう。自ら考える教育を進めよう(1998.4.1.読売新聞より)。
(注:ただ、あるべき論を語るのでは、むしろ子供達の心が離脱してしまいます。対話の質、対話の時の態度が問われているのだと思うのです。やはり先生方の人間観、健康観にあると考えられます。子供達のいのちが輝き、そこから何でも育ってくるとの態度が求められているのでしょう。)
 中教審の報告には、これらの事項を実現する際の人間観や心を育てるということが、如何なる視点、意味でなされるべきかなどについて、具体的には示されていない様に映ります。
 この審議会に参加されている河合隼雄先生は、「子供達のいのちを育てることが大切である。教師は、それをじっと待たなければならない」と言っておられます。「しかし現代の先生には、このことが難しくて、すぐ教えたがるので困ります」とも述べられています。河合先生の考えは、私もまったくその通りであると思います。子供達の「いのち」を観て、子供たちがどんな発想をするのか、待っていればよいのでしょう。これが簡単なようで難しいことなのです。経験、体験を要するということでしょうか。
 私は、体験、経験を待つというのではなく、明日からでもすぐに役立つ具体策が求められていると思うのです。私は、子供達の個性や創造性を高めるには、子供達の思いを、知情意の視点から、わかってやればよいとの考え方を強調してきましたが、そこからいのちの能動性が育ってくるのです。
 また京都大学教授の梶田叡一先生は、心を育てる特効薬はありませんとの見解を示しておられます。今まで教育は定食メニューごときであって、個人個人の思いを大切にしてこなかったが、これではいけないと述べられていますが、定食メニューに代わるべき方法に何があるのかは、語られなかったのです(1998.4.20.NHKテレビ)。
 今回の中間報告には、ボランテア活動の大切さもうたわれていました。神戸の某小学生が、老人達と交流した時の体験談が放映されていました。彼らは、最初は、老人達との出会いは、「なんとなく不安であったり、苦痛であったり、恥ずかしかったり」との自分の気持ちを感じていたようでしたが、やがて老人達との思いが通じてくると、それに応えたり、援助が出来て、嬉しかったと述べていました。この時、子供達の心が輝いているなとテレビの画面から伝わってきたのです(1998.4.20.NHKテレビ)。人と出会い、他者の思いをわかって、それに応えることが出来たとき、子供たちはこれほどまでに輝き、素直に自分のこころを表現するものだとあらためて感動したのです。体験学習の意義が伝わってきました。子供たちがこんなこころの状態でいるときは、彼らの知と情がまとまっている時であり、この時子供達の個性が創造される時であると思うのです。私はこの瞬間が大切であると考えています。子供たちに意識的に、「自分の知と情がまとまると楽しいんだよね」と理解を進めるのです。梶田先生は心を育てる特効薬はないと話されましたが、私はいのちを育て、心を育てる処方箋は、「ここにあり」と述べたいのです。
 誰しもが願っていることでしょう。今度こそ、文部省の教育理念を現実のものとして頂きたいと。今のままでは、先進国が既にそうであるような、スクール・ポリス、金属探知器に象徴される殺伐とした人間関係の中での教育が確実に予測され、それではあまりにも悲しい姿であると思うからです。
 既に述べてきた健康創造へのプロセスそのものが、小中学生のいのちの能動性、こころを育てる具体的な処方箋であると申し上げたいのです。そこから、子供たちを健康に導けると思うのです。私たちが研究を重ねてきた「いのちの能動性を育てる教育、医療、研究の在り方、方針」に耳を傾けて欲しいのです。

おわりに:私自身に捧げる「こころ」の処方箋

 どの職業の方々も同じであると思いますが、私自身は、歯科大学で教育や研究をする立場に置かれて、自分の仕事「教育、臨床、研究」が、まず自分自身を楽しませるものであるべきだと思っています。また同時に、人々の役に立つものでありたいとも考えます。しかもそれが歯医者の論理、教える側の論理−自分自身の専門的知識の実現のため、エゴのため−だけではなくて、人々や学生が「求めている、希望している」健康や教育の実現のためでありたいと考えています。
 だからこそ、私を取り巻く外界とそして私自身のエゴとも仲良く付き合う方法−「こんな医者になりたい。こんな研究者、教育者でありたい」との自分の思いと患者(学生)さんの思いの双方を成り立たせる「基準」−が自分自身の中に求められたのです。
 私は衛生学や予防医学、予防歯科学や社会医学を学び、人々の健康観や疾病の種類が時代の文化や教育や経済の変化につれて揺れ動くものであることを理解するようになりました。そして、単に自分の専門から見た健康観や疾病予防の知識や技術を患者さんや地域住民に一方向的に処方することは、人々を科学という名のもとに、洗脳している行為に過ぎない。時代の文化や教育や経済に揺るがされることのない健康観を樹立しないと、人類はいつまでも時代の波に流され、心身が弄ばれるだけに過ぎない、と考えるようになったのです。
 そもそも私が予防歯科学を専門にして、教育や研究や臨床をすすめてきたのは、歯科大学卒業当時の日本の小中学生の口腔内の状態が惨澹たるものであり、とくに東北地方の子供たちの虫歯の罹患率は高く、その疾病の進行度も酷いものであったので、この問題を解決することが、歯医者としての自分の使命であると考えたからです。
 その当時の私は、口腔内の疾病を予防することで、地域住民に関われることが幸せでしたし、地域の人々からも評価されていたと思いますが、私も地域の人々も本当の健康というものを観ていなかったのかもしれません。虫歯や歯周病やその他の疾病が効率的に予防されれば健康が得られると単純に考えていたのかもしれません。
 勿論私は疾病が予防される事に異論はないのです。しかし、疾病を特異的な予防法で予防する事は、健康の創造に繋がらない疾病観や健康観で、人々の生活行動を規制することになるのではないのかと恐れました。私は、現代の医学の眼−特異的に疾病を予防する姿勢や理想的な生活行動に向けての行動変容−、その健康増進の考え方に何かすっきりしないものを感じ続けてきたのです。
 私は、地域の人々や患者さんが、より健康に接近した考え方を確立するためには、単に歯だけ、口だけ、胃だけ、心臓だけを診て研究や教育をすすめ、予防や治療をしていてはいけないと考え、そして健康創造学の人間観で観てきたように、いのちの能動性をイメージできる人間観のもとで、いのちの能動性を育てることが、究極的に求められている本来の医学であると考えるようになったのです。そして、時代の波に流されることのない、「自立した健康な人格の実現」に向けての医学、医療−人間的成長を図り、適応力を強化できる健康観を示し、総ての人々に普遍的に応用できる論理−を求め出しました。
 とはいえ、自分の歴史を振り返れば「人々のためにと思うこころ」で、歯科疾患を予防したり、治療を進めてきたはずの私の行為が、科学の名のもとに、人々を返って不健康にしている恐れがあるとの自分自身への指摘は、もう一人の私のこころが素直に受け入れたわけではありません。
 何日も葛藤が続きました。経済的効率を配慮し、予防歯科学の専門的知識と技術を処方する昔の私の行為に、使命感と誇りを覚えこそすれ、人々を洗脳しているなどとは思いも及びませんでした。その当時、「人々のために、患者さんのために」との私の思いと行為に一点の曇りもありません。そんな自分から抜け出すのは、容易なことではなかったのです。予防はいいことだ、治療や入れ歯になる前に、予防を進めることに誇りがあり、今でもその精神には変わりがありません。ただ、地域の人々や患者さんの思いがわからない、単なるテクニシャンにすぎなかった自分の姿には、なかなか気づかなかったのです。
 こんな私を救ってくれたのが、臨床で出会ったいわゆる心身症の患者さんたちです。
 私は今、私を含めて、少なくも現代の日本人、一億二千万人すべてが、広義の心身症であるといえるのでは、と思っています。
 なぜなら一つの科学的事実に縛られて、行動が決められているからです。食べたらすぐに歯を磨けば、歯肉の病気が治るという科学的事実が認められたら、「食べて直ちに歯を磨くべき」との考えが、人々の心を、行動を決定する基準になってしまいます。禁煙しかり、禁酒しかり、ジョギングしかり、・・・・すべて白か黒、「正しい」か「悪い」かの基準でもって、行為を縛っているのです。
 心身症の患者さんは、この白か、黒か、の間に揺らぎがほとんど認められないようなこころの状態にあるといえるでしょう。私はこのような患者さんのこころに出会って、患者さん以上に現代の医学の知識に縛られて、それが正しいと言い張っていた自分の姿と直面しました。そして私は、「自分こそが現代の科学に洗脳された病人」であると気づかされたのです。
 その後、私は、私自身を癒すべく、ここに述べてきた「いのちの能動性を育てる理論とその応用」を自らに処方してきたのです。

この論文は、現代医学のもとに教育や研究や臨床をすすめている人々に限らず、あらゆるジャンルの専門家や一般の人々にも目を向けて頂きたいとの願いでしたためましたが、
 今の自分の素直な心を述べれば、やはりこの論文は、人間的な成長を切に望んでいる自らの魂へ捧げるものであると考えています。
 ここに述べてきた「健康創造へのプロセス」は、これからも続くであろう自分自身の日々の暮らしの一つ一つの行為に向けて処方さるべきと考えているのです。
 私の魂が、私のエゴと向かい合って、知情意を整える方向で対話をし続けて、生まれ変わらねばなりません。人間は、このような対話を幾度となく繰り返す事で、より確かな存在、より深い人格に成長していく性質のものであると思うからです。