教養部の周辺案内


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この地図はアルプス社「ProAtlas97首都圏版」のデータをコピーしました

国府台

教養部がおかれているのは国府台の高台の上である。国府台は千葉県市川市の一部、下総台地の西端にあたり、江戸川を望む景勝の地である。国府台という地名を初めてみて、「こうのだい」と読める人はそう多くないであろう。

国府台の地名の由来は、遠く大化の改新にまでさかのぼる。大化の改新により新政府ができると、日本全国を区分し、それらに国府をおいた。各国府には、奈良の中央政府から国司が派遣され、地方政治をつかさどった。千葉には下総(市川)、上総(市原)、安房(館山)の3つの国府がおかれた。

下総国府の領域は広く、今の千葉市以北のほぼ千葉県北半分と茨城県北相馬郡から結城、猿島郡、さらに東京都東部も含まれていた。上総国府とともに政治上第一級の重要拠点だったという。

下総国府の役所の所在地は、諸説あるが国府台や字府中という地名、六所神社の旧位置、さらには出土品から判断すると、国府台1,2丁目あたりではないかと思われる。

それではこの辺りを教養部を起点に散歩してみよう。

辻切りの蛇

災難や悪疫などの厄除けをする初春行事を辻切りという。昔は国府台から国分にかけて盛んにおこなわれていた。国府台の天満宮(昔は教養部構内の法王塚古墳上にあった)では、毎年1月17日に辻切り行事を行う。長さ2メートルあまりのわらの大蛇を作り、お神酒で魂を入れて、町の入り口の辻の木にかける。

この辻切りの蛇が、教養部のすぐ北側の里見公園に行く桜並木の入り口右側の木にかけられている。

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式正織部流茶道

辻切りの蛇を右に見て、桜並木を里見公園に向かって進みながら右手を注意深く見ていくと、落ち着いたたたずまいの門が見えてくる。ここは県の無形文化財に指定されている式正織部流茶道の家元の家である。案内板がある。市川市のホームページの文化財の該当する項には次のような記述がある。

「安土・桃山時代の茶人・古田織部正重然を始祖とする茶道の流派です。古田織部正は信長や秀吉に従えた武人ですが、茶道を好んで千利休に茶の湯を学び、利休高弟七哲の一人に数えられています。

利休亡き後もその名声は高く、徳川2代将軍秀忠の茶道師範を務め驍ルどの地位を得ました。また織部焼、織部灯籠などにも名を残す文化人です。

武人としては、従五位下織部正に任じられた天正13年(1585)に山城国西岡領3万5000石の大名となり、家康にも任えましたが、慶長20年(1615)大阪夏の陣で豊臣方に内通したとの嫌疑により自刃しています。

式正織部流の特色は、利休の「侘」「数寄」を強調した「私の茶」である侘茶に対して、正式な儀礼の「公の茶」であるといえます。それは草庵の茶室ではなく、書院式茶室で点てるのを基本とする格調高いもので、武家的な折り目正しさが感じられます。

侘茶との違いは茶道具をじかに畳に置くことなく盆にのせて扱い、濃茶、薄茶とも呑み回しせず各服点てで、帛紗は道具用と勝手用の2種を使い分けるなどがあり、合理的で衛生的な面がみられます。 」

里見公園

桜並木をさらにキャンパスに沿って進み、突き当たるとそこが里見公園の入り口である。春は、桜並木と公園内のソメイヨシノが満開となり見事な景観を作り出す(下の写真は平成10年4月4日撮影)。

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入り口から入ってすぐには花壇がひろがり、その先には噴水を中心とした回遊式の公園となっている。入り口からまっすぐ進んだ左側には、移築された北原白秋の旧居、紫烟草舎と歌碑がある。この道をさらに進むと、江戸川から東京都側を一望にできる場所があり、さらに奥へ進むと桜に囲まれた広場がある。毎年桜の季節になると、桜並木からこの奥まで多くの花見客でにぎわう。

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園内は里見合戦の古戦場跡の銘板や明戸古墳の石棺跡など、この辺りが歴史的に見て重要な拠点だったことを伺わせる史跡をたくさん見つけることができる。

この公園は、かってはすぐ北隣にある総寧寺の境内の一部であったが、明治8年、国に買い上げられたのち、市に移管されたものである。

総寧寺

里見公園入り口へ戻り、左手の方へ公園に沿って歩くと、総寧寺への入り口が見えてくる。

総寧寺は曹洞宗の寺で、初め近江の国観音寺の城主、佐々木氏頼が祈願し永徳三年(1383)に近江江左槻庄樫原郷に初めて伽藍を創建し、曹洞宗6代の孫通幻禅師を請して開山された。これを天正三年(1575)、北条氏政が下総関宿に移した。しかし、たびたび水害を被ったので徳川家綱に願って、寛文三年(1663)に現在地に移築した。

総寧寺は、江戸時代を通じて幕府寺社奉行の通達を下す頂点にあり、永平寺、総持寺に次いで政治的な力を持っていた。そのため規模も今と比べて広大で、里見公園全体が境内だった。また、昔の参道は、里見公園入り口と紫烟草舎の中程から、教養部グランドと国際交流会館の間を突っ切って真間山下へと伸びていた。

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総寧寺は東京医科歯科大学と意外なところで関係がある。境内の西側には東京医科歯科大学解剖実習でご遺体の一部が納骨されている納骨堂があるのである。下の写真がそれである。献体の碑も建てられている。

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国府台天満宮

総寧寺を後に先ほどの道をさらに北へ進むと国府台天満宮がある。小さな社である。参道の右側に市川市教育委員会が立てた案内板がある。

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「この天満宮は、文明11年(1479)当地の鎮守として太田道潅が建立したと伝えています。もと法王塚の墳頂部に祀られていましたが、明治8年(1685)大学校設立の用地として周辺地域が買い上げられたとき、農家とともに現在地に移されました。

この地域では古くから獅子舞、辻切りといった民俗行事が行われてきました。「辻切り」とは人畜に危害を加える怨霊や悪疫が部落に侵入するのを防ぐため、部落の出入り口に当たる四隅の辻を霊力によって遮断してしまうことから起こった名称です。

遮断の方法には、注連縄をつくって道に張るとか、大蛇を作ってその呪力によって侵入してくる悪霊を追い払うというような方法が取られていますが、千葉県では、南部の地方では注連縄を張る部落が多く、北部の地方では大蛇を作る部落が多かったようです。

市川市でも、昔は国府台、国分にかけた地域で盛んに行われた行事でしたが、太平洋戦争後は世相の移り変わりとともに次第に廃れ、今では昔の姿を伝えているのは、この国府台の辻切りだけになってしまいました。

辻切り行事は毎年1月17日、この天満宮境内で行われ、わらで作った2メートルほどの大蛇を4対つくり、お神酒を飲ませ魂入をして、町の四隅にある樹に頭を外に向けて結びつけます。こうして大蛇は1年間風雨にさらされながら町内の安全のために目を光らせているのです。

獅子舞については、その継承者が各々の家の相続者に限られていたこととと、社会情勢の変化等から、昭和43年を最後に継承が絶えてしまいました。

平成5年3月 市川市教育委員会」

蓴菜池緑地

天満宮を後に松戸街道へ出て、教養部へ戻る途中自転車やさんの角を左に曲がり、道なりに進んで突き当たったら左に曲がり、坂をカーブしながら降りると左手に蓴菜池緑地の入り口が見えてくる。

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蓴菜池は昔は国分沼と呼ばれ、江戸時代から蓴菜が生え、曽谷の蓴菜池(現在では弁天池)とともに有名だった。

戦後は食糧難のために池は干拓されたが、現在は梅林や茶室などが整備され池を巡る美しい公園になっている。

昭和59年(1984)、松田仁松氏をはじめ、蓴菜の復活を願う「蓴菜池にジュンサイを残そう市民の会」が苦心の末、蓴菜の生育に成功した。その後の市民の努力の結果、春、夏の池では蓴菜の他、数種の水草の開花が楽しめる。また、冬にはオナガガモ、ハシビロガモなどが餌を求めてやって来る。

国分寺

蓴菜池入り口の道をはさんだ反対側に国分寺方向を示す立て札がある。これに従って狭い道を台地の縁に沿って10分ほど歩いて右へ坂を上ると国分寺に行き着く。再び市川市のホームページから引用する。

「天平13年(741)聖武天皇によって発せられた「国分寺建立の詔」により、「金光明四天王護国之寺」として建立されました。

下総国分寺跡は、その詔によって建立された下総国分僧寺の跡で、現在の国分寺とほぼ同じ辺りに法隆寺式伽藍配置で建てられました。

昭和40〜41年に実施された発掘調査では、現在の本堂下から東西31.5m、南北19mの何層にも土を固めた金堂の基壇が発見され、その基壇の中心から北西40mにあたる現在の墓地内に東西26m、南北18mの講堂の基壇があり、さらに金堂き基壇の中心から西へ39mのところに一辺が18mの方形の塔跡の基壇がありました。

また、国分寺に使われた屋根瓦を焼いた登窯の跡も近くから発見されました。瓦にある文様は、当時多かった蓮華文とは異なり、「宝相華文」と呼ばれる中国で考えられた当時の流行文様です。」

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国分尼寺は古の寺の北西側にあったが、現在は公園として残っているのみである。

弘法寺

もとの坂を下りながら引き返し、蓴菜池の方へ戻らずにそのまままっすぐに進み床屋さんの角を右側にとって再び坂を上ると、千葉商科大学の裏手に出る。商科大学を右に見て進むと真間山弘法寺の裏手に出る。

天平9年(737)、行基は手児奈の霊をなぐさめるために、一堂を建立し求法寺と呼んだ。その後空海によって山門、仏殿、厨など七堂が造営され、寺号も弘法寺と改められたという。

元慶5年(881)に天台宗に改宗し、さらに下って建治3年(1277)、若宮城主冨木常忍は弘法寺の檀家ながら他宗である日蓮宗に深く帰依し、日蓮のために館内に法華堂を立てた。そこで弘法寺の住職了性と宗論になり、常忍は了性を論破した。その時から弘法寺は日蓮宗に変わり、常忍の義子の日頂が初代貫首についた。ちなみに常忍は日蓮の死後、仏門に入り、法華寺の開祖となった。

以来弘法寺は日蓮宗の寺として栄え、千葉胤貞や徳川家康など支配者と結びつきが強く、その恩恵を受けた。

境内には祖師堂、本師堂などの古い建物と、新しくなった寺務所、水戸光圀が来詣の折に眺望を絶賛し命名した茶室、遍覧亭や鐘楼、仁王門などの建物が建っている。昔から文人墨客が来遊した。仁王門西側には水原秋桜子の句碑「梨咲くと葛飾の野はとの曇り」、同東側には「真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉」小林一茶、シダレザクラの下に富安風生の「まさをなる空よりしだれざくらかな」の句碑がある。

境内を抜けて仁王門をくぐって長い石段を下りると大門通りへ出る。仁王門には空海直筆と言われる仁王門の額、運慶作と言われる黒仁王がある。

市川関所跡



国立精神・神経センター国府台病院

もとの陸軍病院。

野菊の墓文学碑

少し足を伸ばしたいのなら、バスで矢切までゆき、野菊の墓文学碑を見て矢切の渡しを渡り、柴又の帝釈天にお参りしてお団子を食べて帰ってくるといい。

矢切の渡し



柴又帝釈天



この記事の一部は、市川緑の市民フォーラム(事務局・川島千鶴子)発行の「まちかど博物館・真間山かいわい見て歩記」(1991年10月10日発行)を、許可を得て引用しています。

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