(平成13年度「教養部のしおり」より)
「21世紀を生きる」

とは、どういうことだろうか。君が生きている時間軸の目盛がたまたま2001年から2100年の間にあるということだろうか。だがその定義に従うならば、そこらの犬だって21世紀を生きていることに変わりはない。犬と同じでいいのか君たち。




(平成14年度「教養部のしおり」より)
「尾崎豊が嫌いだ」

尾崎豊は僕(徳永)より10ヶ月ほど早く生まれているけど、まあ同世代と言って差し支えないだろう。ともかく彼が「十五の夜」で衝撃的なデビューを飾ったとき、僕も彼も高校生だった。ところが、たしか筑紫哲也あたりが「世代の代弁者」なんてバカなことを言いだしたものだから始末が悪い。冗談じゃない、おれは代弁なんて頼んだ覚えはないよ、というわけで、ひどく不愉快になった。

彼のやることなすこと、すべてが気に入らない。「不良ぶってるけどそもそもお前、お坊っちゃん学校(青山学院高等部)に行ってんじゃねえか」とか、「嫌味ったらしく卒業式間際に退学届出すくらいならデビューして学歴が無意味になった時点で退学してろよ」とか、「『夜の校舎窓ガラス壊してまわった』(「卒業」より)って昼間やる勇気はないのかこの臆病者」なんて具合に、いちいちケチをつけたものだ。

だがそんなのはすべて些細なことである。彼の才能を認めたくなかったのかというと、まったくそんなことはない。彼の歌は素晴らしい。それは誰の耳にも明らかだ。

しかしだからこそ、彼が「悩める青年」を気取っていることが猛烈に腹立たしかった。自分を含む世の中の大半の人間はほとんど何の才能にも恵まれておらず、それでもなんとか生きていくしかないのに。

そういうわけで、「大人は信用できない」なんてイキがってた彼が醜い中年になった時、どんな言い訳をするのだろう、と意地悪な期待をずっと抱いていたのである。なのに10年ほど前、まだ20代の若さで、ヤツはあっさりあの世へ行ってしまった。「逃げられた」と思った。まったく最後まで卑怯な男だ。"天才の苦悩"なんて知ったことではないし、知りたくもない。

しかし一方で、同世代のかけがえのない才能を失ってしまったのは、とても悲しいことではある。

いつだったか、ふと覗いた「芸術」の授業(田家秀樹先生による)で、チューニングの狂いも気にせずギターを掻き鳴らし熱唱する尾崎豊のビデオを観た。そこにはスタジアムを埋めた聴衆のためではなく、ただ抑えきれない自分の感情を吐露するために歌う一人の男がいた。やはりすごい。圧倒的だ。「なぜ彼は死ななければならなかったのだろう」と考えると、不覚にも涙が出そうになった。しばし放心状態に陥った後、教室を出る。そして心の中で呟いた。


「それでも俺は、お前が大嫌いだ!」


(上のコラムはこの講座のコンセプトとは関係ありますが、授業内容とはほとんど関係ありません。授業ではCD、映像作品および実演により音楽を中心とする現代芸術を鑑賞します。この講座の成り立ちと昨年度の内容は「医歯大ひろば」No.86で紹介してあるのでそちらも参照してください)




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