数学科の教育基本方針

基本方針 --- 本来の 「リベラルアーツ」 教育

リベラルアーツとは

リベラルアーツは古代ギリシャに源を発する。ここでの「リベラル」とは、 「実用からの自由」という意味であり、リベラルアーツは、 特に論理的な思考に重点がおかれている学問、教育の分野を指す。 実際、ギリシャでは「代数学」、「幾何学」、 「音楽理論」、「論理学」等が大学教育の根幹をなしていた。

古代ギリシャ以来一貫して、この直接実用に結びつかないと思われる ような学科が、必修科目として教育の中核をなしてきている。

リベラルアーツは実用的?

現代の科学技術文明は、数学や理論物理学といった基礎的学問分野に 支えられて発展してきたことは周知の事実である。 実際、今日の豊かな文明は、 アルキメデス、ニュートン、ガウス、アインシュタインといった天才 科学者達によるところが大きい。 これらの基礎的学問分野は古代ギリシャのリベラルアーツの思想を 直接受け継いでいる。 この分野の多くの研究者は、直接の実用を考慮せず、 「面白い」あるいは「自然界をより知りたい」という意識で研究 を行っており、これはリベラルアーツの思想と合致する。

これは、一種のパラドックスと言えるかもしれない。すなわち、 「実用からの自由」をかかげているリベラルアーツが、間接的には 最大の実用効果をもたらしてきたわけである。

リベラルアーツの教育効果

本当の意味でのリベラルアーツを学ぶことにより、学生は 無意識のうちに「論理的思考能力」、「科学的思考能力」を 身に付けることができる。仮に、そこで学んだ知識そのものが 将来役に立たなかったとしても、実は、思考能力という点で 大きな効果が得られる。ただし、学生が単に知識を暗記するの ではなく、常に「自分でよく考える」という姿勢で学習 することが前提である。

日本は基礎分野に弱い

これは、良く耳にするであろう。実際、日本における 基礎的学問分野は、欧米と比べて遅れていると言わざるを得ない面が ある。日本にリベラルアーツの思想が入ってきたのは明治以降であり、 高々百年あまりの歴史しかないので、ある意味では、やむを得ない かもしれない。 しかし、基礎分野の発展なくしては、これからの時代は乗り切れない ことは明白である。基礎分野の発展のためには、リベラルアーツ教育が 必須となる。

日本はソフトウエアに弱い

日本はハードウエアには強いが、ソフトウエアには弱いとうことが 以前から指摘されている。 実際、ソフトウエアの分野では、日本はアメリカに比べて圧倒的な 遅れをとっている。 これは何故か?

アメリカでは数学や計算機科学の素養がある技術者や学者によってソフトウエアの 基本設計が行われているため、非常に質の高いソフトウエアが開発される ことになる。例えば、ベル研究所で開発されたUNIXは、現在世界中の サーバーの基本ソフトとして利用されており、パーソナルコンピュータ上の Windows (これは MS-DOS に視覚的なインターフェースを取り入れたもの) も、UNIXをまねて作られたものである。 このように、高度な論理的整合性をもって設計をされたソフトウエアは、 長期に渡って信頼を持って使用されることになる。

これに比べて、日本におけるソフトウエア開発は、 「論理的整合性」よりも、「当面動けばよい」という発想で作られ ている場合が殆どである。目先の実用を目指して作られているため、 論理的視点からは、全くなっていないというのが実状である。 これでは、日本から良質で高度なソフトウエアが生まれないのは 当然といえる。

アメリカでは、発想の根底に常にリベラルアーツの思想が横たわって いるのである。

リベラルアーツと医療ミス

リベラルアーツと医療ミスとははあまり関係がないと思われるかもしれないが、 やはり、「システムを論理的に構築する」という能力や意識によって、 安全性の高いシステムを構築できるようになる。 論理的整合性の高いシステムでは、破綻も極端に少なくなる。 リベラルアーツでは、ほんの少しの論理的な欠陥も許さない厳格性を持って いて、リベラルアーツを学ぶことにより、論理的に厳格なシステム構築 の能力も自然に身につくのである。

リベラルアーツと医学

医学の分野では、非常に多くの医学的知識が要求されるため、ともすれば、 暗記に偏り、本当の理解にたどりつけない学生が多々見受けられる。 医学的知識は年々爆発的に増加しているため、今すぐに役に立つと 思われる知識を暗記しても、数年後には役に立たなくなっていることが 考えられる。「今すぐ役にたつことは、実用にはならない」という 視点を忘れてはならない。これは、医学部の教官からもしばしば聞かれる 言葉である。

このように、学習する上で「すぐに役にたつことを学ぶ」という意識が あるかぎり、真に必要とされる能力は育たない。 リベラルアーツの思想を身に付けることが最も重要である。

日本の教育課程におけるリベラルアーツ教育

日本ではリベラルアーツ教育が行われているのか? 殆どの大学で教養部を廃止してしまった現在、リベラルアーツ教育は もはや行われていないのか?

実は、小学校から高等学校にいたるまでの過程において、数学や物理学と いった論理的な科目においては、リベラルアーツの思想が一貫して 守り抜かれてきた。 「将来役に立たないような難しい数学や物理を、何故学ばなければならない のですか?」という疑問を発する学生が非常に多くの割合を占めているにも かかわらず、数学が必修科目として科されてきた。

ただ、ここで問題なのは、高校までの数学教師の意識である。殆どの場合、 「受験科目にあるから」という偏った考え方で教え、学生にも同様の 動機付けを行っている点である。 そのため、学生に「自分で考えさせる」ことよりも、おおくの出題例 をパターン化して暗記させるとう方法が取られている場合がしばしば 見受けられる。このような方法では、本当のリベラルアーツ教育からは 程遠いものとなり、結果的に、その効果が激減することになる。 実際、学生の論理的思考能力は年々低下傾向にあることが指摘されて いる。

教養部でのリベラルアーツ教育

高校までのリベラルアーツ教育が、次第にその力を失いつつあると すれば、大学受験が終わった時点で、学生の意識を根底から変えさせて、 本来のリベラルアーツ教育を施す必要がある。 多くの大学では教養部が廃止されてしまったが、幸い本学では教養部を 存続させるという快挙を行ったため、リベラルアーツ教育が可能な 状態にある。

ここで重要なことは、教官の意識である。 残念なことは、教養部の教官のなかにも「専門課程の準備として 必要な科目だけを必修とすべき」というような意見が見受けられる 点である。これはまさに、リベラルアーツの思想を根底から否定する ものであり、せっかくの教養部の存在意義を無にするものである。 この意識を変革しない限り、教養部における教育は 次第にその意義を失っていくことになるであろう。

学生の意識も重要である。高校までは「大学受験に必要だから」 という理由で、しかたなく数学を学んできた学生も多いと思うが、 大学に入ると、その理由付けが失われるため、 「将来役に立たない科目が、何故必修なのですか?」という疑問を発する ことになる。 しかし、本当に良い医者や医学者になるためには、リベラルアーツこそ 重要であることを強く認識する必要がある。

教育を施す立場から言えば「役に立つ科目だけを必修にして欲しい」と いうような一部の学生の声は完全に無視すべきである。 学生諸君には 「いますぐ役に立つと思われることは、将来の真の実用には結びつかない」 という点をあらためて認識してほしい。

数学科の教育方針

数学科では、数学や情報科学といった分野を担当しているが、 いずれにおいても常に「リベラルアーツ」の思想を機軸としている。 勿論、将来の実用に直接つながる項目も多く教えてはいるが、 どの科目においても、「論理的思考能力」の育成という点を最大の重点に 置いている。この基本方針は将来にわたっても不変である。


リンク:   [数学][教養部][東京医科歯科大学]